2018年04月29日

ブログ書きの1日

どうしても長文に

 昨日も裁判傍聴のブログを書きましたが、完成しませんでしたので、今日もメモを読み返しながら文章をまとめる作業をしました、基本的にモグジーは理科系の人間で国語は大の苦手でした。作文などは最悪でした。それは今でも変わらず、日常の出来事を記録することは語彙が小学生並みながらも何とかできますが、文章をまとめたり、自分の頭で文章を考えて書くのは本当に苦手です。裁判で原告の方々が法廷で語られた内容をきちんとまとめて自分の言葉で書くのも無理ですので、語られた言葉をそのまま書くことになってしまいます。そうするとどうしても文章が長くなってしまい、時間もかかってしまいます。しかし、その方法でしかブログに書けない為、長い文章となって読者の皆さんに迷惑を掛けてしまいます。裁判傍聴のブログは夕方までに何とか仕上げることがでました。明日と、明後日はパン焼きで潰れてしまいますので、夜は審理内容のメモを文字化する作業を始めました。

 ブログ書き作業で頭の中が疲れると果樹園に出て桃の摘果作業をしました、この作業は、緑の葉に囲まれて、10分でも20分でも作業をすれば、摘果作業が着実に進みますので、息抜き作業としては、最適ではないかと思います。この桃の摘果作業もまだまだ続きそうです。



メモの文字化は更に長文に

 何とかブログを書き終えた後は、裁判中に走り書きしたメモを文字化する作業に移りました。裁判を傍聴した時、出来るだけ速記しようと思いましたが、モグジーは速記は勿論出来ませんので汚い文字で走り書きするしか有りません。陳述は全て問答形式です。最初に原告側の弁護人が陳述書に沿って質問し原告が答えることで原告陳述が進んで行きますが、全部は到底走り書きできませんので、原告の発言内容だけを走り書きします。原告側弁護士の質問は非常に短く簡単な言葉ですので、原告の答弁内容が分かれば質問の内容がある程度推察できるからです。それは、被告国側弁護士や裁判長の質問も同様です。終わった直後であればある程度記憶が残っていますので、メモを読み返せば空白の部分も埋めることが可能です。従って午前中に行われた審理内容は昼食休憩時にチェックして自分で走り書きしたのに読めない字をきちんと書きなおしたりします。午後の審理のメモは裁判が終わって帰りの高速バスの中で大半をチェックしています。それでも、細部については正確に走り書きできない部分も出来てきますが、少しでも資料として残しておきたい、関心のある人には読んでほしい思って文字化作業は傍聴出来た審理は最後まで続けたいと思います。初回の原告陳述3名分を文字化したところ400字詰め原稿用紙で60ページほどになりました。今日は3名の原告陳述の内、最初の1名分の審理内容を何とか文字化できたところで作業を終了しました。
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posted by モグじー at 17:08| 徳島 ☔| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月28日

ブログ書きの1日

先ずは畑へ

 朝、8時35分にバスは無事に鳴門に到着しました。すぐに車でログに帰りましたが、殆ど寝ていないのに眠気を感じません。遅い朝食を食べた後、気になっていたイチゴ畑に行きました。赤い実があちこちに出来ていますが心配していたナメクジの被害は無さそうです。まっ赤に熟れたイチゴが目に入りましたので早速収穫をしました。収穫できたのは僅かな量のイチゴでしたが、イチゴの臭いがしっかりしてとても美味しそうでした。これからしばらくイチゴの収穫が続きます。

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 まっ赤に熟れたイチゴです、今年初めての収穫です。袋のお陰でナメクジの被害は有りません



ブログ書きの1日

 イチゴの収穫を終えた後は、部屋に戻ってパソコンの前に座り、一昨日と昨日のブログを書く作業に入りました。一昨日のブログはいつものログの生活を描いたものですので簡単に書きあげることが出来ましたが、昨日の裁判傍聴のブログを書くのは大変でした。法廷の中で一字一句も聞き逃さないように必死でノートに書き留めましたが、それでも書き留めることが出来なかったことが沢山有ります、忘れないうちに整理したいと思い、先ずはノートに書かれていた走り書きの乱れた文字を判読して書き直し、抜けていた語句を埋めていきました。前回の様にブログに先ず大まかな内容を記録し、細かな記録は時間を掛けて文字化することにしました。ブログに書くだけでも作業は延々と続きましたが、12時を越えると、睡眠不足と目の疲れでのパソコンの打ち間違いが多発し、どうにもならなくなりましたので床に入りました。
posted by モグじー at 13:57| 徳島 | Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月27日

裁判傍聴のため熊本へ

行きはぐっすりと

 今日はハンセン病家族裁判の第2回目の原告陳述が熊本地方裁判所で行われます。傍聴券を貰うためには朝9時35分までに裁判所に到着しなければなりません。今回は基本的に往復は鳴門〜博多の夜行バスを利用し、博多〜熊本は各駅停車の新幹線「つばめ」に乗って何とか時間内に到着できるように切符を予約しました。博多行きの夜行バスはログから車で5分足らずの場所からの始発で無料の駐車場があるため、非常に便利です。バスは昨晩午後9時15分に鳴門を出て一路博多に向かいましたが、この便に使われているバスは3列シートで結構楽な姿勢で寝ることが出来ます、最初に乗った4列シートの大阪〜熊本便の様な劣悪なシートではありませんし、このところ寝不足が続いていましたので、バスが動き始めると共に寝込んでしまい、目が醒めたのは今朝の7時前でした。予定通り7時35分に博多キャナルシティに到着すると駅まで小走りし、予約していた新幹線の切符を窓口で発行して貰って8時8分発の新幹線に無事乗ることが出来ました。



落胆から歓喜に

 前回は新幹線を予約しなかったため予定より1本前の新幹線「さくら」に飛び乗ることが出来ましたので、熊本駅前に8時半に到着し、市電を利用して何とか9時過ぎに裁判所に到着できましたが、今回は30分遅れで熊本駅に到着したため、市電ではとても間に合いません。モグジーにとっては清水の舞台から飛び降りる気持ちで、頑張ってタクシーに乗って市役所前まで行き、そこから小走りするようにして早歩きをして何とか9時25分に裁判所に到着し、傍聴券抽選のための整理券を貰いました。モグジーは最後の方で69番でした。前回の半分程度しか整理券が配られていない為、約二分の一の確率です。もしかすると当たるかもしれないと淡い希望を持ったのですが、今回も抽選に外れてしまいました。これで1勝3敗です。ガックリしてホールのベンチに座り込みました。夕方の報告集会までどうして時間をつぶそうかなと考えていると、しばらくして弁護団の方が「誰か傍聴希望の方おられませんか」と言われました。即座に手を上げました、幸いにも他に手を上げた方はおられませんでしたので、幸運にも傍聴券を手に入れることができました。直前まで冷え込んでいた心が一気に熱くなりました。今日の傍聴ができると思うと嬉しくて堪りませんでした。早速荷物を持って法廷に入りました。今日も午前中に1名午後に2名の方の本人陳述が有ります。午前10時に開廷されお昼の休息を挟んで午後4時半近くまで審理が続きました。今回も審理内容を必死で記録しましたので、雰囲気をお伝えしたいと思います。ただ、速記が不得手なモグジーですので、語句の正確さは自信が無いことをお伝えしておきます。



最初に原告番号6番のCさんが証言台に立たれました

「一面雪が降ったような…」

 昭和18年に北海道で生まれたCさんが7歳の時、父親が療養所に収容された。その時のことを「黒い服を着た人が2人来て父を連れて行った、母も付き添って行き私が一人残された、すると白い服を着た5.6人の人が家の外も家の中も真っ白になるまで消毒した、それを見て雪と思い収容されたのは冬と思い込んだ、後で4月と分かった」。父親が収容されて以降は親戚付き合いも近所付き合いも全て無くなり、仕事を失った母親は魚の行商でCさんを必死で育てた。Cさんは学校では一番背が低かったのでそれまでは一番前の席だったが、それ以後は、最後列の席の更に後ろに離れて一人だけ座らされた。友達から「うつるから近寄るな」といじめられ次第にCさんは学校に行かなくなり、暗くなるまで行商から帰って来ない母親をCさんは豆電球しかない薄暗い部屋で泣きながら待った、そのうち泣き疲れて眠っていた毎日だった。中学校へは更に行かなくなり、友達のことも学校のことも先生のことも全て覚えていないと。
 中学校を卒業すると集団就職で札幌のマルハに就職し寮に入ったが、父親の病気のことがばれないかという不安が大きくて、皆の輪の中に入って行けず友達も出来なかったため数か月で退職して母親の元に帰った。18歳で結婚し、相手を連れて父親に会いに行った。最初は何もなかったが、子供が生まれてから、夫が暴力をふるうようになった。暴力は次第にエスカレートしていったが、子供のために離婚しないで必死で頑張った。子供が大きくなってから、このままでは母親が生きていけないと思った子供が父親と離婚の話をつけ、やっと離婚が出来た。
 Cさんは友達が出来ても、隠しているのがつらくて、父親の病気を告げると、皆友達が離れて行った、平成15年に九州でハンセン病家族が集まってれんげ草の会が出来たので入った。同じ立場なので何でも話せた。現在でもれんげ草の会の人以外の友達は一人もいない、作りたいとも思っていないと語るCさん。
 父親はCさんを病気がうつるからと言って絶対に近寄らせなかった、全くスキンシップが無かった。会いに行くと「働かないと食べて行かれないので早く帰れ」と言われ、「父さんが病気になったから夫から叩かれる」と言うと「お前が選んだのだから仕方ない」と言われ喧嘩になったがそれでも親子なので面会に行った。父が亡くなる2.3年前から、帰ろうとすると父が涙ぐむようになった。父が好きで病気になったのではないのに、もっと優しくすれば良かったと後悔し、父ともう少し長く暮らしたかったと話されたCさんは最後に「消毒をして皆に分かるようにして連れて行ったことが無かったら、貧乏でも近所の人と付き合えたと思う、生まれてからずっと父の病気のことで苦労してきたが、国が私たちの気持ちを受け止め、誰にも嫌なことを言われないで安心して死にたい」と。


国側弁護人よりの質問

・父親の病気がハンセン病と理解したのは何時頃ですか
・友人に父親がハンセン病であることを打ち明けたのはいつごろですか
・子供にはいつごろ話をしたのですか
・孫にはいつ頃話をしましたか


裁判官

・ハンセン病について世間で騒がれたことが有ったというのはいつのことですか
・夫が出世できないというのはどういうことですか
・父親がハンセン病と認識したのは中学のいつごろですか
・夫は夫の身内に病気のことを話していましたか


裁判長

・父親が入所した時検査を受けませんでしたか
・母親は行商以外に収入は無かったのですか
・行商でどれぐらい売れたのですか
・行商で誰に売っていたのですか
・行商は朝市で売っていたのですか
・漁村では皆魚を買わないのではないですか
・学校にいけなかったが、もし行けてたらやりたかったことは何ですか





 午後に入り原告番号26番のDさんが証言台に立たれました、Dさんは父親のことを思い返すたびに絶句し嗚咽されしばらく沈黙が続きました

「父に親孝行がしたかった」

 Dさんは昭和16年に大阪で生まれ、両親と3人の妹と暮らしていた。昭和21年に母親が急逝し、直後に父親がハンセン病となり昭和22年6月父親とDさんと妹三人は愛生園に収容された。自宅を出る時家族全員が真っ白に消毒され公衆の面前でトラックに乗せられるいう公衆の面前で受けた辱めによるショックと、大阪駅で無人のホームに置かれた貨車に乗り込むまで、白衣の男二人に家族が歩いた後を消毒されたのを見た衝撃で、最初の1年間の記憶はほとんどない。父親は患者地区にDさん達は職員地区に在る保育所に入れられ月に1度それも短時間しか会えなかった。保育所ではハンセン病を怖い病気うつる病気として徹底的に教え込まれた
 Dさんは小学6年の時大阪の養護施設に預けられ、そこから就職した。Dさんは就職して1年後に妹たちを呼び寄せて一緒に生活を始めた。父親を呼んで1週間家族全員で生活したときに、父親の弟は顔を見せたがその後は縁が切れ、父親の妹は顔も見せず縁が切れた。叔父叔母の対応は社会の偏見・嫌悪感を考えると特にどうとも思わなかったが、父親のことを考えると可哀そうだった。昭和39年に結婚したが、事前に父に紹介したのは最低限の親孝行と思っていたので連れて行った。結婚後も父親と連絡を取り合い、娘の名付け親になって貰ったり、父親を呼んで家族で万博などにも行った。父は手が少し曲がり、硬直していたが大きな後遺症はなかった。父を自宅に招いた時無意識に食器を別に洗っていた。やっぱり自分の中に強い偏見と嫌悪感があるのを意識した。親孝行の一番は一緒に住むことだが出来なかった。愛情と嫌悪感の葛藤が常に自分の中に在った。昭和56年に父親は亡くなった、心にぽっかりと大きな穴が空いた。大きな存在であった、その父に嫌悪感を持っていた、本当に申し訳ないと思った、親孝行が出来なかったことを後悔している。社会に偏見が根強く残っていることを国はどう考えているのか。感染力が弱い、治る病気と分かっているのに社会に発信しなかった国の姿勢を当事者としては容認できない、国の不作為である。光田氏反応の注射を予防注射と言って毎年2回させられた。注射は、ものすごく痛くてひどい痕跡が残った、第3者にみられると驚かれた、これは保育所に居た刻印である。文献を調べた結果、効果ははっきりしないのに続けていた、正に人体実験ではないか。注射を受けた当事者として容認しがたい。偏見や嫌悪感は保育所で植付けられた、正しい知識を我々に伝えてくれなかった、許しがたい国の不作為だ。、子供の頃に若い頃に正しい知識を得られていたら今とは違った親子関係が出来ていたと思う父を引き取って妹たちと自由に行き来できる環境を作りたかった。それが出来なかったのが唯一の後悔です、父に申し訳ない。



国側弁護人の質問

・陳述書には保育所に入った後、父親の病気が恐ろしいものと認識し始めたとありますが、そうですか
・お父さんの病気はどのようなものでしたか
・徴用されて長崎の造船所で働いていた時に病気に感染したと思われていたのですか
・どんな病気と説明されましたか
・奥さんを愛生園に連れて行った時どんな反応が有りましたか
・陳述書には当日奥さんが気分が悪くなったと書かれていますが


裁判官

・百貨店に叔母さんに会いに行った時、その前に叔母さんと会ったことはありましたか
・保育所の柵のことを教えてください
・ハンセン病の正しい認識が得られたのはいつですか


裁判長

・ハンセン病に対する正確な認識は無かったのですか
・らい菌は伝染性が強いと言う認識が有ったのですか
・病気になると手足がおかしくなるという理解でしたか
・父親のそばに行くと伝染するとは思わなかったのですか
・結婚前に奥さんに病気のこと話しましたか
・疎開先から戻った時、大阪空襲の後と思いますが家は有りましたか
・終戦の段階で資産は有りましたか、鯛の尾頭付きの話が出ていたので
・長崎の造船所で働いていたと聞いて当時戦艦武蔵を作っていたのでかなりの収入が有ったのかと思って
・終戦後の大阪の焼野原の印象は残っていますか
・DDTの粉のことは覚えていますか




最後に原告番号9番のEさんが証言台に立たれました

「20aの距離がどうしても埋められなかった」

 Eさんが5歳の時両親が療養所に入所し、Eさんは療養所付属の保育所(竜田寮)に入った。昭和22年に竜田寮事件が起こり寮におれなくなり入所中の父親に連れられて、奄美大島の辺境の地に住む母の妹の家に連れて行かれた。叔母には2歳下の男の子と6歳下の女の子がいた。当時母方の祖母は奄美の療養所に入所していた。Eさんにとって叔母との生活は大変だった、叔母は定職が無く近所の手伝いをして食べ物を貰っていたが、食べ物が無くなると親戚の家にお金を借りに行かされとてもつらかったと。その後、父親が亡くなり、母親は奄美の療養所に移った。名瀬港で船に乗って帰って来た母と会った時、母から大きくなったねと言われたが駆け寄って抱き合うことは無かった。懐かしいと言う気持ちもなかった。それからは春休みや夏休みには療養所に母を訪ねて行った。村から小さなポンポン船に乗って2時間かかって名瀬港まで行き、そこから療養所までのけもの道の様な山道を歩いて行った、朝7時に出て午後の2時に着くという大変な距離を身体と同じぐらいのカゴに味噌などの食料品を入れて背負って持って行った。療養所に行く広い道が有ったが、職員に見つかったら追い返されるのでけもの道を通るしかなかった。猛毒のハブよりも職員の方が怖かった。そのような苦労をしても母親に会いに行くのは、母の元に行けば三度の食事が食べられるからだった。母親が恋しいと思うよりこの人しか頼れる人はいないと思っていた。昼間は人に仲の良い親子ねと言われたが、夜は1枚の布団に20a位離れて寝た。母親との距離はどうしても埋められなかった、Eさんは母親に甘えられず、母親はE子さんにきついことが言えなかった。竜田寮を出る時、母親が写真を撮りたがったがEさんは嫌だった。そばに寄ってくる母から20a離れた写真が残っていた。4歳で引き離されたので母親への愛情は無かったのだと語るEさん。
 村は非常に貧しくて、当時は熊本と奄美のこの村とは物凄い差が有った。食べるものも満足に食べられない生活だったが、叔母に世話になって生きて来たので、中学校を卒業しても進学したり集団就職で島を離れることはせず、島で大島紬の仕事をして働いた。お金は皆叔母に渡した。その叔母に一度だけ抵抗した。19歳の時妻子のある男性と一緒になりたいと思い島を出て鹿児島に行った。1年後に妊娠したが9ヶ月で破水し子供が生まれた。暖かいところで子供を育てようと思い、叔母に袋叩きにされると思ったが島に帰った。私自身も親が無かった、子供に父親が無いけど私がしっかりしなければと強く生きてきた。昭和43年ごろ母が脳梗塞となり不自由者寮に移る時、母の部屋で、4歳のころまで両親と福岡で住んでいた頃の写真を見つけた、可愛い帽子をかぶった写真を見つけ、私にもこんな時が有ったのかと思った。島に帰って厳しい生活に耐えられたのも幼い頃きちんと育てて貰えたから生きて来られたのだと思う。母親は平成8年に亡くなった。最後はそばに付いてあげようと付き添った。母は私が死んだらここに来なくて良いねと言った。亡くなる前、2ヵ月間一緒に暮らしたけど親子の会話はしたが身体をさすってあげることは出来なかった。夕方に亡くなったので2晩のお通夜となった、入所者の方から「ご苦労さん」「和光園ともお別れだね」といわれ故郷を失うと思った。私には親もなく兄弟もなく一人で生きて来たが、和光園に母が居り色々な人が居てくれた。私の心にしみついた心の傷は癒えることが無い、今度こそ、私たちの気持ちを受け止めて謝罪してほしい。


国側の弁護人の質問

 ・病気のことはどの様に理解していましたか
 ・結婚された方は同じ村の方ですか
 ・結婚前に相手の方に母親や祖母の病気の話をしましたか
 ・人に家族の病気のことを話したことが有りますか


裁判官の質問

 ・陳述書で婦人消防団の活動をしていた時、息子さんが行方不明になったと書かれていますが
 ・集落の中ではどんな家でどんな病気の人が出ていると分かっていたのですか

裁判長の質問

 ・島の集落で伯父さんの家に水汲みに行った時のことが書かれていますが
 ・ハンセン病のことを理解したのはいつごろですか
 ・結婚や就職の話を持って来てくれるのは同じ集落の人でしたか
 ・大島紬はお金になったのではないですか
 ・奄美大島は大島紬とサトウキビで裕福だったのではないですか
 ・集落全体が貧乏だったということですか
 ・奄美和光園にはどれぐらい行かれましたか




帰りのバスでは殆ど眠れず

 今回も、福岡発の夜行バスに乗らなければならない為、報告集会には出ずに、熊本から博多まで高速バスに乗り、博多で夕食をとった後、博多発9時45分の夜行バスで鳴門に向かいました。来るときは車中で殆どの時間寝ていましたが、裁判で頭が興奮していたのか殆ど眠れないまま鳴門に着いてしまいました。
 回の傍聴で特に強く感じたのは消毒と保育所の問題でした。原告たちが幼いころに体験した保健所による無慈悲ともいえる度を越えた激しい消毒は周囲の住民にだけでなく幼い原告にも表現も出来ないような衝撃を与えました。また、親が療養所に入所し子供が療養所内の保育所に収容されるケースが良くありましたが、保育所では親が罹患しているハンセン病がどんなに恐ろしい病気であるか、うつりやすい病気であるかを幼い脳に徹底的に擦りこみましたその結果、子供たちはハンセン病を恐れ親を恐れ親に接近できなくなりました。私たちはハンセン病に対する偏見と差別は、患者に近い肉親、職員、療養所周辺の住民と言う具合に近しい関係がある者ほど激しいと何の傷みを感じることなく語ってきました。恥ずかしいことながら、職員として家族の側に居た積りの私でさえ、その溝の深さを理解できていませんでした。裁判を傍聴する中でやっとその深さに気付き始めています。国の政策は家族に肉親との間に決して埋めることのできない溝を作ってしまいました家族はその溝を埋められなかった自分自身を責め苦しみ、家族の再生に向かって立ち上がっています。これまで、この苦しみはずっと家族の中に沈殿して表出されることは殆ど有りませんでした。この裁判でやっとその苦しみが語られ、家族の再生に向けての闘いが始められています。国には到底受け止めることも理解することもできない苦悩と再生への闘いです。でも、全国に現在も存在し今も自分の心の中で苦悩しておられる家族には何とか裁判で語られる言葉が届いて欲しいと願わずにおれません。この営みこそがこの裁判の最大の意義ではないかと思います。
 モグジーが大島青松園で働いていた時のことです。二人の子供を連れて入所したKさんは二人の子供を保育所に預けました。保育所で育ち島の小学校・中学校を卒業後二人とも頑張って娘さんはその後看護師長さんにまで、息子さんはホテルの支配人にまで成られました。Kさんにとっては立派な社会人になられた子供のことが自慢でした。Kさんから依頼され何度も家族に面会に来てほしいと手紙を代筆しましたが、行きたいけど仕事が忙しくて行けないという返事が返って来るだけでした。やっと娘さんが島に来られたのは、Kさんが亡くなられ、葬儀も終わった後でした。「島では良い思い出は一つもなかった、辛いことばかりだった、どうしても島には来たくなかった」と語られました。
 また、ハンセン病を発病して妻と離婚し1歳になったばかりの子供を連れて大島青松園に入園されたSさんは、保育所から島の小中学校を経て社会に出て立派に成長された息子さんが時々面会に来てくれても面会所でしか会ってくれず、絶対に自分の部屋には来てくれないので淋しいと辛がっておられました。子供たちが体験した消毒や保育所がどれだけ過酷な傷跡を入所者だけでなく家族に残してしまったのか。せめて、臨終のときは手を握ってやりたかった、しかし、それすら出来なかった自分自身に対するどうしようもない気持ちに家族は今も苦しんでおられます。帰りのバスでは大島青松園で出会った入所者の方々のことが次々と浮かんできて眠れない一晩を過ごしました。

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posted by モグじー at 13:30| 徳島 | Comment(4) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年04月20日

なぜこんなことに

10年しか持たないような設計です!

 昨日で当面のモグジーの出番は無くなったと思っていましたら、昨日の夕方、長女から孫守りの電話が入りました。長女の話では6年前に購入した冷蔵庫の冷凍庫が機能しなくなり、入れていたアイスクリームなどの冷凍食品が全て融けてしまったので、購入先の電気店に電話を入れたら、すぐに見に来てくれたけど、担当者から「修理に時間が掛かるので今日は修理できない、明日の午後修理に来ます」と言われたが、午後に用事が出来て外出しなければならないので、修理の立会いと孫の子守りで来てほしいとのことでした。勿論快く了解をしましたが、矢張り、しばらくは呼び出しがちょいちょい有りそうです。
 今朝は、良く晴れて暖かいので、午前9時からのテニスは暑さ対策が必要と思い、半袖と短パンと言う夏用の服装で出かけました。ネットを張り、ボールを打ち始めるとすぐに汗が流れだしました。身体が、まだ、暑さに対応できないのか、まるで、夏の様に何度も休憩をとって水を飲まなければプレーを続けられない有様でした。それでも、何とか2時間の練習を乗り切ることが出来ました。
 ログに帰って、昼食を取った後、早速、徳島の長女宅に向かいました。孫が保育所から帰って来ていましたので、長女に今日の様子を聞いたところ、保育所に着くと泣き始めたとのことですが、迎えに行った時、保育士さんに様子を聞いたところ、最初は泣いていたけど、そのうちに泣き止め、給食ではご飯を全部とおかずを三口程度食べたとのことで、それを聞いてモグジーもちょっぴり安心しました

 午後、1時半に冷蔵庫のメーカーの修理担当者の方が来られ、早速修理が始まりました。修理に4時間余りかかるとのことで、冷蔵庫の中の食品はログから持参した大きなクーラーボックスに移しました。家の中に修理に使う道具が色々と持ち込まれましたが、確かに大がかりに修理の様です。モグジーは色々な機械類の修理には非常に興味が有りますので、孫の子守をしながら、担当者の方から話を聞きました。
 今回の故障の原因はすでに特定が出来ていて、冷却用のパイプからガスが漏れたことが原因とのことです。冷蔵庫の裏のパネルが外されると沢山の銅のパイプが張りめぐされていました。これだけのパイプが有ったら、パイプのどの部分からガスが漏れているのかを見つけるのは大変だろうと思っていましたら、基本的には全てのパイプを取り換えるとのことで、ガス溶断機で銅のパイプが次々と切断され、新しいパイプが溶接されていきました。これだけのパイプを取り換えるとなれば長時間かかるのもうなずけます。結局、パイプの取り換えに4時間余りかかって修理は終わりました。
 冷蔵庫を作る時、確かに、溶接でパイプを組み立てていくのは大変と思いますが、普通に6年間使っただけで、ガス漏れが起こるのは不良品ではないかとモグジーは思います。担当者の方に聞くと、この様な修理は結構あるとのことで、忙しい時期は訪問しての修理は難しいので、冷蔵庫を2週間余り預かって帰り修理をしているとのことです。そして、その方の口から出たのは「最近の家電は10年程度で壊れてしまうように設計されている」との言葉でした。この事はモグジー自身も強く感じていましたが、実際にメーカーの方から聞くとショックでした。日本でも超有名なメーカーの製品ですが、昔の日本の物作りに対する魂は破壊されてしまいつつあります
 モグジーが小学校の頃は、物は大切にしなさい、鉛筆も最後まで使いなさいと教わりました。大学生の頃、短くなった鉛筆に、長いキャップを付けて、使えなくなるまで使っていた所、友人から、そんなことをしていたら、物が売れなくなって不景気になり皆が困るのだと言われたことがありますが、今の世の中は全てがこの調子です。モグジーから見れば今の世の中は何もかも狂っています。物を大切にすることより景気を良くすることの方が大切と言われながら、その恩恵を受けているのはごく一握りの人のみです。こんなことを書き始めると、年寄りの愚痴が止まらなくなりますので、これでおしまいです。
posted by モグじー at 00:21| 徳島 | Comment(4) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月19日

今日で終了

雨に助けられました

 3月16日に熊本地方裁判所で行われたハンセン病家族訴訟の原告陳述の内容を文字化する作業を昨日から始めました。当日は3名の原告が証言台に立ちましたが、1名に付き90分程度の陳述が有り、昨日のAさんの分だけでも原稿用紙に20枚分の陳述が有りました。時間が掛かりますので、1日に一人分の陳述を文字か出来れば良いと、今日も朝食後から作業を始めました。いざ、始めてみると昨日で作業の要領が分かって来たのか、昼食までに二人目のBさんの陳述も文字化することが出来ました。そこで、気合いを入れて午後は3人目のF君の陳述を文字化する作業を始めました
 卒業生のF君のことはこれまでに何度か本人からの話を聞いていますので、大まかな内容は分かっているのですが、その反面、一つ一つの言葉で表現されていることの中身がずっしりとモグジーの心にのしかかって来て、結構、文字化しながら色々なことを考えてしまいました

 F君は中学校のK先生から朝鮮人で有ることは少しも恥ずべきことではない民族の誇りを持って生きてほしいとの言葉を貰って高校では本名を名乗ろうと思ったと裁判の中で陳述していますが、その時F君の前には生き生きとしたK先生の顔が在ったのではないかと思います。その反面ハンセン病に関しては誰も相談できる人がいなかった、自分は孤独でしたと陳述していますが、F君の前に立っていたモグジーは深刻な顔をしながらハンセン病のことを話していたのだと思います。それでは、F君を初めクラスの生徒達は元気が出なかったと思います。矢張り、言葉は発する人の表情や気持ちが重なって相手に伝わると思います。そういう意味では、私の尼工での11年間の教員生活では、余りに必死過ぎて、疲れ果て、自信のない、暗い雰囲気の表情で生徒たちに語りかけていたのかも知れません。その反面、大島青松園では、厳しい状況の中で、生きて抜いて来られた入所者の方々から、本当に沢山の力を貰いました。どんな仕事であれ、生き生きと働けたのが大島青松園でした。時々、青松園で働いていた頃の写真を見ることが有りますが、自分でも良いなと思うぐらいいい顔をしていました。
 F君の陳述だけでなく、3名の方の陳述を文字化しながら色々なことを考えました。出来れば、残された日々、少しでも生き生きとした顔で在りたいと思いながら作業を進めました。文字化作業は今日は雨が降り続きましたので、作業に集中でき、先ほどやっと3名分の文字化作業を終えることができました。雨に感謝です。この記録はモグジーにとってはとても大切な記録ですので大切にしたいと思います。
posted by モグじー at 23:19| 徳島 🌁| Comment(2) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月17日

ブログ書きの1日

いくら時間が有ってもたりません

 昨晩は11時半頃ログに帰り着きましたが、興奮していたのかなかなか眠れませんでした。今朝はいつも通りの時間に起き、朝食を終えると早速ブログ書きの作業を始めました。大量のメモが有りますが、走り書きですので読むだけでも時間が掛かります。それをどう短くまとめるのか、モグジーにとっては、大苦行でした。それでも何とか書かねばと思って1日書き続け先ほど、午前0時半にやっと16日のブログを書きあげました。今日はブログ書きだけで1日が終了しました。
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2018年03月16日

思わず涙が流れそうに…

取り敢えず間に合いました

 この数日間は春の様に暖かかったので、寒さの心配はあまりしていなかったのですが、バスの中は意外と寒くて困りました、誰も寒いと訴えませんので、車内温度はそのままで博多まで走りました。3列シートで乗り心地が良かっただけに残念です。また、朝の休憩で止まった博多附近の古賀SAは丁度改装工事中で、はずれに臨時のトイレや売店が設置されていましたが、バスは最も離れたところに留められており、しかも、結構雨と風が強くトイレに行くのが大変でした。一番モグジーにとってストレスとなったのはSAで40分余り時間調整のため止まっていたことです。新幹線に乗るためバス到着地の博多キャナルシティから博多駅まで10分余り歩かねばなりませんので、少しでも早く到着して欲しかったのに…
 予定通り7時45分にキャナルシティに到着すると小走りで博多駅まで行き、新幹線の切符を購入し、7時58分発の新幹線に何とか乗ることができ、熊本に8時35分に到着しました。傍聴券配布時間まで50分余り有りますのでタクシーに乗らずに済みラッキーでした。市電に乗り市役所前で降り、歩いて裁判所に向かい裁判所には9時15分頃到着しましたが丁度門前集会が開かれていましたので参加した後、傍聴券の抽選のため並びました。



F君の証言が聞ける!

 傍聴券はこれまで2回とも外れています、モグジーはクジ運が悪いので半分諦めていました。ただ、F君の話では、毎回、傍聴券が無くて傍聴できない人が多いため、今後は、途中で交代して一人でも多くの人が傍聴できるようにしたいと弁護団が考えているとのことでしたので、もし、外れても、F君の尋問だけは聞けるかもしれないというかすかな望みはありました。傍聴希望者が並び番号札を受け取りました。カードには63番と書かれています。今回は朝9時半からなのに沢山の人びとが詰めかけられ100人を超えていました。しばらくして当選者の番号が張り出されました。有ったのです「63」が、本当に嬉しく思いました。これで、F君の話が聞けると思うと…苦労して来た甲斐が有ったと思わず涙が流れそうになりました。最低限F君の話が聞ければ大満足ですので弁護団の方に午前中は誰かに交代しても良いですよと申し入れましたが、取り敢えず何枚か予備がありますので、もし必要だったら声を掛けますとの返事でした。その後、声が掛かりませんでしたので、法廷に入り一番前の席に座りました。



全て質問に答える感じで

 法廷での原告陳述(裁判所側から言えば証拠調べ…何か嫌な言葉ですが)の前に、原告は陳述書を裁判所に提出します。陳述書は当然、原告側、被告側、裁判官の3者が事前に目を通しそれを元に進められます。実際の陳述は原告が一方的に陳述するのではなく、先ず原告側弁護人が陳述書に沿って原告に質問し原告が答えるという形で進み、次に、被告側弁護人が陳述した内容や、陳述書に掛かれた内容について質問し原告が答えていきます。最後に裁判官が陳述や陳述書に沿って原告に質問します。今回の原告陳述では一人当たり80分余りの時間の中で、原告側弁護人の質問に答える感じの陳述に60分余り費やされ、被告側弁護人と裁判官の質問は各々10分程度でした今回モグジーはノートに出来るだけ詳細な記録を取ることにしました。この記録は非常に大切なものですから時間を掛けて丁寧にまとめたいと思っています。



「もう少し気を遣ってくれたら」

 最初に原告番号3番のAさんが証言台に立たれました。

 弁護士…何時、どこで生まれましたか
 Aさん …昭和9年、大阪の南部で生まれました
 弁護人…家はどんなでしたか
 Aさん …家は母屋と納屋よ牛小屋と待ち針工場がありました、工場は両親と3人
       の人を雇っていました

  といった感じで陳述が進められていきます。

 ここで、全てを再現することは不可能ですので、大まかな内容を記録しておきます

 Aさんは昭和9年、大阪の南部で生まれ、家は農業とマチ針工場をしていた。昭和15年に2名の警官と3名の係員が来て病気の父親を収容した、数日後家を消毒された。全てが真っ白になるほど繰り返し消毒されたのを近所の人が皆見ていた。それから、近所付き合いが無くなり、友達の皆無となった。学校に行ってもいじめられ、そのうち学校に行かなくなった。2歳上の兄が何時も支えてくれていたが、その兄もAさんが小学校4年の時療養所に入った。昭和20年に姉が死に、残ったのは身体の弱い母親と本人と妹だけとなった。田も畑も全て売り、その日の食事にも困るようになった。母も昭和27年に亡くなり姉妹二人だけとなった、妹15歳、Aさん17歳だった。れからは男になって生きて行こうと思い、化粧もせず、服も買わず、男みたいに働いた。Aさんはいまだに化粧はしていない。家を守り、先祖を守らねばと10歳から必死で働いてきたAさん。食べる物が無い時は水を飲んで働きに行った。妹が昭和35年に結婚する時、兄が籍を抜いて縁を切った。昭和37年にAさんは婿入り婚をした。親から受け継いだ戸籍を絶対に消したくなかった。その後Aさんに二人の子供が出来生活が落ち着いた頃、兄が運転免許をとって家の近くまで来て電話を掛けてきた。びっくりしたが兄とすぐ分かった。下の子を自転車に乗せ兄に会いに行った。兄のことは下の子が中学を卒業した時に話した。その後上の子にも話し、最後に夫にも話をした。娘たちも結婚し、兄も大阪まで遊びに来るようになった。兄は平成12年に亡くなった、お骨は家に持って帰った。父のお骨も家の墓に入れられている。

 最後にAさんは、父を連れて行く時、もう少し気を遣ってくれたらここまでひどいことにはならなかったと思う。なぜそういうことをしたのか、政府の人に聞きたい。学校に行けかったので読み書きが出来んのが一番つらい、人生を青春を返して欲しいと。


被告側弁護人からの質問は

 あなたが何歳の時にお父さんは収容されましたか
 お父さんの病気がハンセン病で有ることを知ったのは何歳ですか
 お兄さんの入園を知ったのはいつごろですか
 近所の人はお兄さんの入園のことを知っていましたか
 ソーメン屋の人の紹介でお見合いしたのですか
 あなたのご主人さんはお父さんの病気のことを知っていましたか
 上の娘さんにあなたが何歳の時に話しましたか
 大人になってからも差別は有りましたか
 小さい頃はどうでしたか
 お兄さんとの関係はいつごろから再開しましたか

 ハンセン病の差別は結婚差別が最も象徴的であるため結婚の時に差別が有ったのかを中心に質問を重ねていました


裁判官の質問
 裁判官は男性の裁判長と弾性の裁判官、女性の裁判官の3人で3人から質問が有りました

男性裁判官
 兄さんはいじめられなかったのですか
 集落の人から何かありましたか

女性裁判官
 妹さんがいじめられたことが有りますか
 旦那さんや娘さんは近所の人とどうでしたか

裁判長
 地域のイメージはどんな感じですか
 地域で病人が出た家は他にありましたか
 田畑を二束三文で買ったという伯父さん(父の弟)は徴兵されなかったのですか
 電話は家に有ったのですか
 手でグルグル回す電話ですか
 戦争中は食糧難で野菜など売れたのではないですか
 陳述書にお母さんがブラウスを縫ったとありますがその頃は服もない時代だった
  のにお母さんはハイカラだったのですか
 陳述書にお母さんがカキやミカンを買ってくれたと有りましたが、その頃は普通の
 家ではカキやミカンは買えなかったのでは無いですか



「喧嘩をしても父親が恋しかった」

午後に入り原告番号4番さんのBさんが証言台に立たれました

 Bさんは昭和20年に生れ、24年に父親が入所、母親は23年に生れ妹だけを連れて再婚し、Bさんは父親の祖父母に預けられ小学校3年の時、母方の祖父母に預けられ、その後、3回目の結婚をした母親の家に戻るが、なじめず再び母親の実家にもどる。中卒後は大阪の伯父の家で生活し昭和43年に結婚する。結婚の手続きで父が生きていることを知り、母親に問い詰めるが教えてくれず。妊娠したことを母親に言うと子供を産むなと言われた。長男が生まれた時やっと母親が父親は菊池の病院に居ると言った。子供を連れて菊池恵楓園に行くとやっと父親に会えたが顔は歪み手足に包帯を巻いた父親に長男を抱かすことは怖くてできなかった。病気のことはほとんど知らなかったが、小さいころ色々とたらい回しにされたのは父親のせいだと思った。その後も何度となく父親に会いに行った。しばらくして夫に父親のことを伝え会って欲しいと言ったらたら、会ってくれた。それからは夫と子供達を連れて父親に会いに行った。父親は入所した時、ずっと会うこともないと思い、Bさんの幼いころの写真を額に入れ水やの中に入れていた。結婚前の写真が無かったBさんは自分にもこんな時が有ったのかと思った。父親は平成元年に亡くなった、悲しくなく、やっとハンセン病と療養所と縁が切れると思った。お骨を父親の実家に入れようとしたが受け入れて貰えなかった。父親と二人だけになった時きついことばかり言った、父親がそのような病気だったからBさんは行き場所が無かったと思った。言いたい放題言えたのは父親だけだった。喧嘩をしても父親が恋しかった、母親は今でも憎んでいる


被告側弁護人からの質問

 父方の実家で誰と寝ていましたか、同じ部屋に誰かいましたか
 父親の病気のことを知ったのは何歳の時ですか
 父親に会った時、子供を抱かせましたか
 ハンセン病のことでいじめられたことは有りましたか
 なぜ夫に父親の病気のことを話したのですか
 夫の反応はどうでしたか


裁判官の質問

 お母さんとの交流は無かったのですか
 何度も父親に会いに行ったのはなぜですか
 ご主人はハンセン病に付いてどう理解していましたか
 病気の話をきちんと聞いたことが有りますか
 隔離に付いて聞いたことは有りますか




「私の生い立ちのどこが抽象的なのですか」

最後に原告番号7番のF君が証言台に立ちました

 F君は1955年に生れ、翌年に母親と下の姉が療養所に入り、F君は岡山の育児院に預けられた。翌年父親と上の姉も療養所に入所しF君が9歳の時、母親たちが退園となり、家族が迎えに来て兵庫県の尼崎市で家族5人で住みはじめた。母親が非常に優しくしてくれたが、甘えたりおねだりすることが出来なかった。F君が母親の病気を知ったのは小学4年の時で薬を飲む母親に病気のことを聞いたら声を潜めて「らい病」と言った。その仕草でこの事は絶対に誰にも言ってはいけないとF君は思った。育児院では本名のまま過ごしたが、9歳で転向した時名前が通称名に変わり朝鮮人であることを知った。クラスのもう一人の朝鮮人生徒がいじめられているのを見て朝鮮人とばれるのが怖かった。中学校の時に先生から朝鮮人であることは恥ずかしいことではない堂々と生きなさいと言われ、高校から本名を名乗り朝分研に入り、卒業後は本名を名乗って公務員となった。朝鮮人の人権・差別問題と取り組んだのにハンセン病のことはどうしても明かせなかった。結婚の時も相手に病気のことは話さなかった。結婚して数年後、妻に「お母さんが生きていてもしょうがない、長生きをしていてもしょうがないと言っていた。あなたの家族は何か変よ」と追及され母親の病気のこと、自分が育児院に預けられた事を話した2003年母親が飛び降り自殺をした。警察から連絡を受け病院に行き母親の遺体と対面した時涙が出なかった。涙が出なかった自分のことを思い起こすと、こんな子供にしか育たなかった自分が申し訳なくて涙が出た。私を生んだ後、病気が出て、何度も入所勧奨を受け、最後は銭湯から家族の入浴を拒否されて泣く泣く入所を受け入れたが、別れる時、子供を離したくない言って母親は泣き狂った。母親はもっと私に甘えてほしかったと思う、母親に冷たく対応したつもりはないが母親には淋しかったのかもしれない。そして、2011年に父親が飛び降り自殺をした。
 F君は母親が療養所に入り何もかも失ってしまい悲嘆に暮れていた時に男性と出会い支えて貰えたので、もう一生療養所から出られないと思って結婚したことをずっと悔やんでいて自殺し、妻の自殺を悩んで父親が自殺したと思っていた。ところが、後にF君は親と親しくしていた入所者から詳しい事情をきかされた。事実は入所した母親にある男性が無理矢理に結婚を迫り強姦した結果母親は男性と一緒になったが、そのことを知った父親は逆上し相手の男性を包丁で刺し傷害事件として逮捕され裁判で有罪となった。父親は療養所に入所した。昔、F君は母親が園内結婚したことで罪を背負った、父親はその後療養所に入所した。殺人未遂と言う罪を背負った。罪を背負った二人は自ら命を絶ったと思った。しかし、今は、両親に罪を背負わせたのは国ではないかと思っている。隔離政策が家族の生活を無残に破壊したと。母親は本当に父親を愛し父親は本当に母親を愛していたとF君は思っている。
 育児院で楽しく生活していた自分には被害はないとF君は思っていた。しかし、自分の母親が死んだ時に涙が出なかった、親子にとって最も大切な時に引き離された事そのものが被害ではないかと思う。親が収容されたとき涙ながらに分かれたという親子が羨ましいと思った。
 最後にF君は訴えた、、提訴して2年になる、この間充分に意見陳述をしてきた、それなのに国は家族の被害は抽象的と言っている。私の生い立ちのどこが抽象的なのですかと。


被告側弁護士からの質問

 小学校4年の時、母親から病気のことを説明されましたか
 ハンセン病のどこが嫌われるのか知っていなかったのですね
 母親がうつ病になった原因を聞いていますか
 奥さんにハンセン病のことを伝えた時どんな反応でしたか
 3家族で療養所を訪問し、病気の話をしたのちの関係はどうなりましたか
 療養所へのバスツアーで母親の病気を話したとのことですが反応はどうでしたか


裁判長からの質問

 奥さんに打ち明けた時奥さんの反応はどうでしたか


以上、本当に短くまとめてしまい、陳述内容を少しでも伝えることが出来たのか自信はありませんが、何か伝えなくてはとの思いで書かせて戴きました



何かがおかしい

 こうして、3名の方の原告陳述に立ち会わせて戴き、ハンセン病になった家族のことで、長年つらい体験を重ねてきた残された家族の方々の思いのほんの一部を聞かせて戴きましたが、今日の話を聞かせて戴いただけでも、私が青松園に勤務し、家族とお会いし聞かせて戴いた内容とは余りに違いました。矢張り、肉親の世話をして貰っている職員に対し本心は語れなかったのかも知れません。一方で思ったのは裁判と言う魔物でした。被告の国側弁護人も裁判官もそこにある真実ではなく形として見えるもののみを拾い集め法律と言うザルで濾して自分たちが作った物差しで測れることだけを測って白黒を付けようとしているように見えました。更に、法律自身が行政の都合の良いように作られているため、正しいとは到底思われないことも沢山有ります。裁判官の質問、国側弁護団の質問を裁判で聞いていると、裁判で何を求めようとしているのか考えざるを得ませんでした。でも一人でも多くの家族の方の陳述を聞かせて貰うため裁判に通い続けたいと思います。



裁判が終わるとログへ直行

 裁判が終わった後、F君と会ってゆっくり話をしたいと思っていましたが、F君は仲間と来ていて、その付き合いがありそうでしたので、今日は帰ることにしました。予定より早く帰れるため、夜行バスを予約しようと思い電話を入れてみましたが満席で予約はとれませんでした。ホテルで泊り明日移動するか、新幹線と特急を使って今夜中に帰るか選択しなければなりません。窓口で調べて貰ったところ新幹線に乗って岡山で四国方面の特急に乗れば最後の便に間に合うとのことですので、切符を買い新幹線に乗りこみました。このところ精神的に色々と疲れていますので早く帰って寝ることにしたのです。乗り換えも上手くいき、午後5時過ぎに熊本を出発し、ログに11時半に無事帰り着くことが出来ました。
posted by モグじー at 00:03| 徳島 | Comment(6) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年03月15日

熊本へ

予定変更!

 昨年、12月4日にハンセン病家族訴訟の第7回公判が開かれた後、弁護団から次回の公判はは3月2日と3月16日の予定と聞きましたので、早速、夜行高速バスの切符を購入しました。ところが、その後、原告として裁判に関わっている卒業生のF君とメールでやり取りをしたところ、3月2日は日程の協議だけで公判は開かれず、その代り3月16日は午前と午後に公判が有り午前は原告1名の証人尋問が、午後は2名の証人尋問が予定され、午前10時からの開廷で9時から門前決起集会9時半から傍聴券の抽選が始まるとのことでしたしかも、3人目の証人尋問はF君とのことです。これまで2回裁判を傍聴しに行っていますが、2回とも傍聴券の抽選で外れています。しかし、どうしてもF君の証人尋問だけは聞きたいと思いますので、9時半に間に合うように裁判所に駆けつけなければなりません

 乗車予定のバスの切符は午後1時開廷の裁判に合せていますので当然間にあいません。午前9時半までに裁判所に到着できるためにはどのような手段で行けば良いのか色々と悩みました。これまでの2回の傍聴の経験や、公判後のF君との話し合いなども考えると、車で行くのが最もモグジーにとってはベストでストレスが少ないと思うのです、SPIKEは完全にフラットになり家で寝るのと同じように睡眠がとれ、夜行バスよりもよっぽど楽ですが、どうしても家族が危険とのことで許してくれません。仕方なく、夜行バスで鳴門から博多まで行き、博多から新幹線で熊本に行き、駅からタクシーで裁判所に駆けつけることにしました。バス停から駅まで結構な距離が有り、バスの到着時刻が読めませんので、走ることも考えておかねばならず、今回は財布と携帯とメガネと文庫本の必要最小限の荷物で出発することにしました。

 バスは9時5分始発ですが、駐車場等のこと等が分かりませんので、いつもの時間に夕食をとった後、ログを早めに出てバス乗り場の鳴門ICに向かいました。バス停には広い駐車場が有って許可証を貰えば無料で駐車できることが分かり安心しました。バスは3列独立シートで、前回大阪から熊本まで乗った4列シートとは乗り心地が全く違います。始発時は乗客が3人で心配しましたが途中徳島市内で何人か乗車し、更に高松市内で何人か乗り、最後に坂出で高知方面から来た乗客も合流すると殆ど満席となり瀬戸大橋を渡って一路博多に向けてバスは走りました。
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posted by モグじー at 05:45| 徳島 ☀| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月27日

孫守りの1日

歯医者に行くのでホマをみて!

 先日、徳島の長女に「27日の午前中に歯科医院に行くのでホマレの子守をお願い!」と言われ快く孫守りを引き受けたモグジーは、朝食を終え、雑用を済ませた後、9時にログを出て、約束の9時半までに長女宅に到着しました。孫はモグジーが一番使い勝手が良いのか、いまだに喋れないので指を使って色々と指図をします。殆どが身体を使う用事ですので結構体力を使いますが。ただ、室内だといつもと同じことを何回も繰り返すだけですので、モグジーが楽しくありません。そこで、今日は最初から海浜公園に連れ出すことを考えていました。幸いにも今日は朝から良く晴れていて風も有りませんので、幼児の外遊びには最高の日和です。娘が出かけると早速、孫を連れて海浜公園に歩いて行きました。この公園は最近作られましたが、モグジーは存在だけは知っていましたが遊具のことは全く調べていませんでした、ただ、海辺と言うだけでモグジーの方が心が踊っていたのです。
 家から公園まで大人の足で15分余りですが、車も余り通らず歩くだけでも気持ちが良くなりました。勿論、公園までの往復は抱っこしてやりましたが、公園に着くとすぐに自分で歩きはじめました。公園内を見渡すと高齢者の姿が少し見えるだけで子供の姿が見えません。遊具などが設置された公園の中央部分に行くと、遊具に見えたのは高齢者の体力作りのための色々な設備で、孫が大好きな滑り台などの遊具は何処にも見当たりませんでした。それで、孫を公園に連れて行くと言っても余り娘が喜ばなかった理由が分かりました。でも、小さな孫は一緒に身体を動かして遊ぶのが楽しい様で、遊具が無くても、体力作りの設備で結構喜んで遊んでくれました。それほど長い間遊んだつもりは無かったのですが、家に帰っておやつを食べているとすぐに娘が帰って来ました。今日は時計を見ることも無くあっという間に孫守りが終わり楽勝でした。



午後も守りしてくれる?

 実は今日、娘に会った時様子が変なのです。背中に湿布の様なものをぶら下げているので、聞くと、急に昨日から首の後ろから背中に掛けて激しい傷みが有り、子供を抱くのも大変とのことです。昨日、すぐに行きつけの接骨院に行って治療を受けたそうですが、傷みは収まっていないので、又治療に行きたいけど、その時も孫守りを依頼されていました。そこで、治療に行く日が決まったら教えてくれるようにと返事をしました。
 娘が歯科医院から帰ってきて、接骨院に電話を入れた所、今日の夕方なら治療できるとのことで、娘から「ジーちゃん、今日の夕方でも良いの?」と聞かれ、了解しました。モグジーは、今日長女の家から帰る途中に小型船舶免許の書き換え手続きをする予定で書類を持って来ていますので、先に、その用件を済ませておくため出かけました。2時間余りかかって長女宅に戻ったところ、孫はモグジーが出かけてすぐにお昼寝を始めたとのことで、モグジーが留守中はずっと寝ていたそうです。矢張り、外に出て身体を動かすということは孫にとっても良いことだと思いました。



夕方も公園に!

 海浜公園は遊具が無かったことを娘に伝えると、近くに小さな公園が有って滑り台やブランコなどが有るとのことです。そこで、娘が接骨院に出掛ける時、一緒に家を出て今度は孫をその小さな公園に連れていきました。大好きな滑り台が手ごろな大きさで、孫は何度も何度も滑っていました。また、ブランコにも乗ってみたり、地球儀の形をした肋木などで遊んでいました。肋木などは最初は全く興味を示さなかったのですが、他の幼児が遊ぶのを見て興味を持ったのか、隙間を何度もくぐっては喜んでいました。この頃の子供は単純なことでも何度も何度も繰り返し遊んでくれますので、そばに付いていても楽です。余りに遊びすぎて帰る時間のことを忘れてしまい、慌てて孫を家に連れて帰ったところ、すでに娘は治療から帰って来ていました。取り敢えず、孫を娘に渡し、モグジーもログを目指して帰りました。今日は孫守りで始まって孫守りで終わりましたが、外での遊びが殆どでしたので気持ちの上では疲れは残りませんでした、これからは次第に暖かくなってきますので、孫守りも楽になって来ます。
posted by モグじー at 22:40| 徳島 ☁| Comment(2) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年02月05日

お金は要りませんよ!

やっぱり病院に行こうか?

 今回の風邪は先週の火曜日の晩から始まった激しい咳が始まりでした。それから約1週間が経過しましたが、一向に熱が収まってくれません。咳の方は随分楽になったのですが。今週末には上京する予定ですので、少しでも早く治したいと思っているモグジーは近くの医院で見て貰うことにしました。
 モグジーが住んでいる高島は近年、文教地区として人気が高いためか、鳴門市全体では子供が減少しているのに高島だけは子供の数が増えているとのことです。しかし、島にはずっと小児科は有りませんでした。ログに孫達が帰って来ても直ぐに駆けつけられる小児科が無く困っていました。ところが数年前にログのすぐ近くに小児科が出来たのです。海に面した敷地に建てられた小さな医院を見て、先ずモグジーが思ったのは、きっと先生は海が好きなんだろうなということでした。それだけで親近感が湧いてきます。それにしても、こんな立地条件で経営が成り立つのかなと心配した程です。更に、嬉しいことには、小児科の横に小さく内科と書かれているのです。それからは孫も時々お世話になり、モグジーも体調を崩した時に何度か診て貰っています。



様子を見ましょうか?

 医院まで車で1分もかかりません。医院に着くとすぐに診察室に通されました。病状を聞かれましたので、簡単に病状を話した後、取り敢えず、喉の奥を見てください。「少し赤いかな、でも、大丈夫でしょう」と言われました。そこで、モグジーが週末に上京しなければならないので、早めに、解熱剤を使って熱を下げた方が良いのでしょうかと聞いたところ、「身体が一生懸命闘って熱を上げているのに、それを薬で下げたら脚を引っ張ることになりますよ」「身体の負担になるような無理なことは控えて貰えればそのうち納まると思いますよ」と言われ、薬も出ませんでした。そして、薬も出していませんので今日はお金は要りませんよ」と言われてしまいました。モグジーも妻も出来るだけ薬は飲まない主義ですので、先生の方針は大賛成ですが、今の日本の医療の奔流となっている薬漬け主義と真反対だけに本当にこの先、この小さな医院が生き残って行けるのか心配になってしまいます。
posted by モグじー at 20:38| 徳島 ☁| Comment(6) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

60才からの挑戦

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