2018年02月05日

お金は要りませんよ!

やっぱり病院に行こうか?

 今回の風邪は先週の火曜日の晩から始まった激しい咳が始まりでした。それから約1週間が経過しましたが、一向に熱が収まってくれません。咳の方は随分楽になったのですが。今週末には上京する予定ですので、少しでも早く治したいと思っているモグジーは近くの医院で見て貰うことにしました。
 モグジーが住んでいる高島は近年、文教地区として人気が高いためか、鳴門市全体では子供が減少しているのに高島だけは子供の数が増えているとのことです。しかし、島にはずっと小児科は有りませんでした。ログに孫達が帰って来ても直ぐに駆けつけられる小児科が無く困っていました。ところが数年前にログのすぐ近くに小児科が出来たのです。海に面した敷地に建てられた小さな医院を見て、先ずモグジーが思ったのは、きっと先生は海が好きなんだろうなということでした。それだけで親近感が湧いてきます。それにしても、こんな立地条件で経営が成り立つのかなと心配した程です。更に、嬉しいことには、小児科の横に小さく内科と書かれているのです。それからは孫も時々お世話になり、モグジーも体調を崩した時に何度か診て貰っています。



様子を見ましょうか?

 医院まで車で1分もかかりません。医院に着くとすぐに診察室に通されました。病状を聞かれましたので、簡単に病状を話した後、取り敢えず、喉の奥を見てください。「少し赤いかな、でも、大丈夫でしょう」と言われました。そこで、モグジーが週末に上京しなければならないので、早めに、解熱剤を使って熱を下げた方が良いのでしょうかと聞いたところ、「身体が一生懸命闘って熱を上げているのに、それを薬で下げたら脚を引っ張ることになりますよ」「身体の負担になるような無理なことは控えて貰えればそのうち納まると思いますよ」と言われ、薬も出ませんでした。そして、薬も出していませんので今日はお金は要りませんよ」と言われてしまいました。モグジーも妻も出来るだけ薬は飲まない主義ですので、先生の方針は大賛成ですが、今の日本の医療の奔流となっている薬漬け主義と真反対だけに本当にこの先、この小さな医院が生き残って行けるのか心配になってしまいます。
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2018年01月09日

多くの家族に見守られて

姉を連れて

 昨晩は22時にホテルの布団に潜り込みましたが、朝までぐっすり寝て、体力も回復できましたので、朝ぶろに入って心身をスッキリさせ、朝食を食べて腹ごしらえをした後、姉を迎えにグループホームへ向かいました。姪の話によると姉には義兄が亡くなったことは伝えていないとのことです。午後1時半からの葬儀への出席は無理ですので午前中に葬祭場で最後のお別れをさせてやりたいとのことで、送迎を頼まれていました。グループホームに行くといつもの様に目が合うとにっこり微笑んでくれ、体調も良さそうです。モグジーの車に乗せて葬祭場まで連れて行きました。

 義兄も姉も家族をとても大事にし、子供も孫もとても可愛がっていましたので、家の壁は娘や孫たちの写真であふれています。孫達は皆、おじいちゃん・おばあちゃんが大好きです。葬祭場に着くと沢山の孫達が姉を笑顔で出迎えてくれました。二人の娘に手を取られ、お棺の中の義兄と対面しました。55年間一緒に暮らしてきた夫婦の最期の別れです、でも、悲しいことに、姉には夫との別れが理解できていないのでしょうか、姉は娘の手を取って貰って夫の頬に手を添えていましたが、言葉は有りませんでした。姉と義兄の存在が二人の娘を六人の孫をそして一人のひ孫を育んできました、娘も孫もひ孫も皆立派に育っています。告別式の最後に遺族代表として喪主のYちゃん(Mちゃんの姉)が挨拶をしました。挨拶の言葉を聞いていて、義兄のそして姉の思いが確実に子供達や孫たちの中に生きていることを強く感じ、「お兄さん、お姉さん、こんなに立派な子や孫が育っていますよ、良かったね」と声を掛けました。でも、晩年の夫婦だけの暮らしを見た時、余りに悲しすぎます。子に孫にひ孫に恵まれているのに、欲張りすぎかも知れませんが、もっと、二人にとってご褒美が有って良かったのではないかと、つい、思ってしまうのです。そういう、モグジー自身に、更には、モグジー夫婦にどのような晩年が用意されているのか、本人は勿論のこと、誰にも分らないのが現実なのかも知れませんが…



雪が心配で

 今日は山口市内でも朝から雪が降っていました、天気予報では、あちこちで、雪の予報が出ています。今回は車での往復ですので、寒波が来る帰りはずっと雪のことが気になっていました。夜には山間部は確実に雪になりそうですので、できれば、夜になる前に山間部を抜けたいと思っていました。、告別式が終わり、斎場までは一緒に行きましたが、お骨あげ迄待っていると、雪の中を走る可能性が大きくなりますので、申し訳ないと思いましたが途中でお別れをさせていただきました。斎場を午後4時に出発し、所々で小雪に見舞われましたが、本格的な雪は降りませんでしたので、無事に9時半にログに帰ることが出来ました。次女や孫達が帰って来た12月23日から今日までが、あっという間に終わってしまいました。いつもなら孫達が帰った後は、しばし、淋しさを感じるのですが、今回だけは、義兄のことが有りましたので、淋しさを感じることなく二人だけの生活に戻ってしまいました。また、春休みが来るのを待つことにします。春が来たら孫を連れて姉に会いに行けます、それがモグジーにとっては大きな喜びです。、
posted by モグじー at 01:45| 徳島 ☁| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2018年01月08日

急遽山口へ

「今、父が亡くなったの」

 昨日、バゲットを焼き初めて間もなく、突然、山口に住んでいる姪から電話が入りました。妻がMちゃんから電話よと電話機を渡してくれたので耳に当てると「今、父が亡くなったの」との姪の言葉が飛び込んできました。昨年11月18日にMちゃんの祖母(姉の義母)が103歳で亡くなったとき、モグジーは葬儀に駆けつけましたが、Mちゃんの父親(モグジーの姉の夫)は、持病の心臓が思わしくなく入院中で葬儀にも出席できませんでした。モグジーは葬儀が終わってから病院に寄り一声だけ掛けて来たのですが、声は弱々しくとても心配な状態でした。その後、姪から何度か電話を貰いましたが、年を越すのも難しいかもとのことで、ずっと気になっていました。でも、お正月を越えても連絡が有りませんでしたので、何とかこのまま頑張って命を繋いでほしいと願っていました。しかし、難しかったようです。
 朝亡くなったのであれば、今晩が通夜で明日が葬儀になるので今からすぐ駆けつけねばと思いつつ、帰省中の孫たちもまだログに居て今日もパン焼きを手伝ってくれており、翌日の午後3時の飛行機でつくばに帰るので飛行場まで送っていくことになっているし、パンを最後まで焼くと夕方まで掛かるし、どうしようかと悩んでいると、妻が「明日は友引なので葬儀は9日になるかもしれないよ」と言ってくれました。葬儀が1日延びればなんとかなりそうです。葬儀の連絡が入るまで頑張ってパン焼きを続けました。



何とか無事に到着

 しばらくしてMちゃんから連絡が入り8日が通夜で9日に葬儀とのことです。それであれば万事うまくいきそうです。夕方までに予定していたパンを全て焼き上げ、孫達には名人のSさんと友人のYさんから戴いた鯛やツバスやアジで山盛りの刺身を作って夕食に出してやりました、刺身が大好きな次女や孫も大喜びでした。
 今朝は、昨日焼いたパンを東京の子供達や知人に送るため荷造りをしクロネコに持ち込んだり、山口に行く荷物を作ったりして大変でしたが、何とか次女と二人の孫を載せて空港まで送って行き、荷物を降ろすと見送りをする時間も惜しんで、其のまま、妻と二人で山口に向けて車を走らせました。
 徳島の阿波踊り空港を午後3時に出発し、400`余り走って、午後7時半に何とか山口市内の葬祭場に到着できました。今日はずっと雨が降っていて、しかも暗いので前が見えにくく辛い運転となりましたが何とか事故もなく到着でき感謝です。
 通夜はすでに終わっていましたが、会場にはMちゃんを初め大勢の家族の方々が残っておられ、皆さんとの挨拶を済ませた後、Mちゃんから最期の様子を聞かせて貰いました。



最期の最期まで姉のことを!

 義兄(姉の夫)は1月3日に急に血圧が下がって危篤状態となり、とても危なかったそうです。姪が病院に駆け付けた時、何とか意識を取り戻した義兄は「ヒロノブ(義兄の名前)が死んだ、ヒロノブが死んだ」と言うので姪が「お父さん、生きているのよ、ヒロノブは生きているのよ」と何度も繰り返したところ、「ヒロノブは生きとるのか」と言い、そして「わしは川で船に乗りよった、船の中を見るとヨシコ(姉の名前)が乗っとらん、慌てて船を降りたんや」と言うことを話していたそうです。姉のことをいつも心配して、自分の体調が良くないのに姉の面会に通い続けた義兄にとっては、姉を残して先に逝くことは出来なかったのだと思います。三途の川を渡らずに必死で引き返してきた義兄ですが、その三日後に遂に旅だってしまいました。どんなに無念だったことか。義兄の最期の話を聞いてモグジーの涙は止まりませんでした。

 モグジーは姉にとても可愛がってもらいました、それだけに、姉が義兄と結婚する時、姉を義兄に盗られた気持ちが強く有りました。義兄は男ばかり4人兄弟の長男でしたので、弟が沢山いたのに、モグジーのことも実の弟の様にとても可愛がってくれました。義兄との思いでも沢山あります。義兄は魚釣りが大好きです、何時か義兄と鳴門の海で魚釣りをしたいと思っていましたが、ログが完成した頃はまだ義兄も姉も元気でしたので何度かログに来て貰って魚釣りもして貰いました。本当はもっともっとログの生活を楽しんで貰いたかったのですが、姉が病気になり、そして、義兄も入退院を繰り返していた為、ここ数年はログに来て貰えなくなりました。今がログ暮らしも最も充実しているだけに二人揃って来て貰えないのがとても残念でした。そのことが今も大きな心残りとなっています。
 しばらく、MちゃんやMちゃんの姉であるYちゃんとアルバムを見ながら義兄と姉の思い出話をした後、妻とホテルに向かいました。パン焼きで2日間睡眠不足状態であった上に長距離の運転で体は疲れ切っていましたので、湯田温泉なのに温泉にも浸からず布団に潜り込みました。

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2017年12月29日

食パンを焼いて良かった

今回も全員の方にお会いしよう!

 昨日焼いた食パンを持って今日は大島青松園に行ってきました。モグジーは大島青松園を離れてからも時々入園者の方々に会い行っていました。ただ、全員の方にお会いするのではなく、何人かの方々を訪問する形でずっと島を訪れていましたが、「このままで良いのだろうか」と言うことが、ずっと心に引っ掛かっていました。そして、今年の7月にやっと全員の方にお会いする形の訪問を実現することが出来ました。その時、大島青松園を離れて以来ずっとお会いしていなかった方々から、勿体ない様な言葉を沢山貰いました。矢張り、全員の方にお会いしなければならないと強く思い、今回も全員の方々にお会いする気持ちで現在の入所者57名分のお土産を持って行きました。外出中の方など数名の方にはお会いできませんでしたが、取り敢えず、全ての方の部屋を訪問する事だけは何とか出来ました。
 先日八幡浜のSさんに戴いたミカンと昨日焼きあげた食パンを持って行きましたが、皆さん、食パンの袋をご覧になって、綺麗に焼けているねと褒めてくださいました。



「早くお迎えに来て」

 今日の訪問で最も辛かったのは、Aさんの「生きとっても辛いことばかりです、毎朝、早くお迎えに来て!」とお願いしていますと言う言葉でした。大島青松園で働いている時「早くお迎えに来てほしい」と言う言葉は何度も聞きました。加齢と共に身体の障害が重くなり、自分の身の回りのことが出来なくなった方々からこの言葉を聞くと、「そんなことを言わないで頑張ろうよ」とはとても言えません。入所者の方の顔を見ながら言葉を聞き入ることしかできませんでした。そして、その方が仏様に成られたとき、お棺の前で、「よう頑張ったね、やっとお迎えに来て貰えたね」と声を掛けるのが精一杯でした。
 Aさんは園内では若い方で、年齢もモグジーとは4歳しか離れていません。大きな障害もなく、自分のことは何でもでるし、ずっと不自由な方のお世話をしてこられました。園内で一緒になられたご主人さんもAさん同様にお元気でした。2年前ぐらいにAさんのご主人さんから「うちのが最近落ち込んでいるんや」と聞かされましたが、Aさんとお会いすることもなく時が流れていました。そして、昨年、Aさんのご主人さんが入浴中に急逝されました。今年の7月にAさんにお会いしたところ、沈んだ表情で「早くお迎えに来て欲しい」「生きとっても苦しいだけ」と言われました。でも、Aさんの心に届く言葉をモグジーは発することが出来ませんでした。
 今日も同じ言葉がAさんの口から語られました、モグジーはAさんを元気づけるような言葉を返せませんでした。ただ、お土産の食パンを渡しながら「僕が焼いたパンだけど食べてみて」と声を掛けると、一瞬ですが、表情が緩んだのを感じました。そして「ありがとう、食べさせて貰います」と声を掛けて戴きました。
  モグジーは入所者の皆さんから重たい言葉を聞いたとき、どの様に言葉を返して良いのか分からないときが良くあります。生きるということを深く理解できていないのかも知れません。と言うより、基本的な何かが足りないのかもしりません。そんなモグジーにとって、食べるものを作るということは唯一自分が最も素直になれることではないかと思います。自分が頑張って少しでも美味しいものを作り、それを食べて貰って「美味しい」と感じて貰えたらこんなに嬉しいことはないと言う気持ちこそ、モグジーの身体の芯から発すことのできる唯一の言葉と思います。この事を、今日もAさんとの出会いで感じました。また、パン焼きに力が入ります。
posted by モグじー at 22:30| 徳島 ☁| Comment(2) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月21日

今年も沢山のミカンを貰いました

好天気に恵まれ旅行気分に

 今日は八幡浜にミカンを貰いに行ってきました。モグジーが八幡浜のSさんにミカンを貰いに行くようになったのは、長男が八幡浜のミカン専業農家Sさんの娘さんと結婚することになってからです。長男は2000年に結婚しましたので多分今回でSさんから美味しいミカンを貰うのは18回目ではないかと思います。本当に最高のミカンを沢山戴いて申し訳ないのですが、とにかく美味しいミカンですので、ついつい甘えて毎年ミカンを貰いに八幡浜通いを続けているモグジーです。
 八幡浜に向かう時は、途中で知人宅に寄ったりしますので、基本的には往路は一般道を走ります。18回も走ると結構途中の景色も頭に残っていて懐かしく、それだけで楽しい旅となります。特にお気に入りの道は西条から川内の間に在る「桜三里」と伊予から保内までの海沿いの道です。今日は良く晴れていて伊予灘はとてもきれいでした。一般道は高速に比べ走る時間は倍以上になりますがとにかく景色を見るだけで嬉しいので、モグジーは各駅停車と一般道の旅を選んでしまいます、単に場所が変わるだけでなく、時間を掛けて移動する方が本当に旅した気分になります。
 四国の地図を広げると良く分かりますが、鳴門と八幡浜は四国の東端と西端に位置し距離的には400`余り有ります。鳴門から八幡浜まで行くとき、一般道も色々なルートを使いますが、今日は久しぶりに吉野川沿いの道を上流に向かって走り、池田から川之江に抜ける道を走りました。良く晴れて車の中はポカポカでしたが徳島県と愛媛県の境では外気温はマイナス1℃とのことで、道路が凍結していないかちょっぴり心配でした。後はいつものように「桜三里」と伊予灘沿いの道を利用しましたが、途中殆ど渋滞が無く、Sさん宅に午後1時ごろ到着しました。ログを朝の6時半に出ましたので、往路は6時間30分かかったことになります



年に一度の出会い

 Sさんご夫妻にお会いできるのは、年末のミカンを貰いに行った時だけですので、積もる話が沢山あります、話に夢中になっているとあっという間に長時間が経ってしまい、慌てて倉庫に行ってミカンをコンテナに積み込むことが毎年のように繰り返されます。今日も話に夢中になって作業時間が少なくなり、大急ぎでミカンの積み込みを終え、Sさん宅を出発したのは午後の5時でした。ミカンが一杯に詰め込まれたコンテナを18個を積み込むと頑張り屋さんのSPIKEも大変です。いつも、車のスプリングが大丈夫か気になるのですが、毎年のように18個のコンテナを積んでいますので、多分大丈夫と思い、帰路は高速道路をひたすら走り続けました。帰りは休息を一度も取らず走り続けた結果ログには午後8時過ぎに無事に到着できました。復路は3時間ちょっと掛かりましたので、一般道を走るとはやり高速の倍ほど時間が掛かっているようです。ログに到着するとSPIKEが可哀そうなので、車内のミカンコンテナをデッキに移動させる作業だけは直ちに済ませておきました。
 明日と明後日でパンを焼き、美味しいミカンとパンを持って24日には関西に行くことになりそうです。
posted by モグじー at 23:45| 徳島 ☀| Comment(4) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月16日

年に一度の集い

何とか雨も降らずに

 18年間働いたハンセン病療養所大島青松園から徳島県の国立病院に異動を命じられたモグジーは、定年までハンセン病療養所で働きたいと思っていただけに、落ち込んでしまいました。それでも、新しい職場で働き始めると少しずつ仲間が出来、仲間に支えられて定年退職までの7年間何とかを無事に勤めあげることが出来ました。定年退職後ログハウス作りに夢中となりましたが、ログハウスも完成し生活が落ち着き始めた頃から、お世話になった病院の仲間に声をかけログで年に1回集いを持つようになりました。最初の頃は、仲間たちも若く小学生前後の子供も多かったため、子供を中心とした集いにしていましたが、いつの間にか、子供たちも大きくなって最近は大人だけで集まっています。別に仲間で勉強会をすると言った真面目な集いではなく、皆で集まって一緒に食事の準備をし、作った料理をワイワイ言いながら楽しく食べるだけのことですが、年に一度会えるのが楽しいのかずっと集いは続いています。

 モグジー自身、どっかのお店に行ってそこで出された料理を食べながら楽しい一時を過ごすより、自分たちの手で料理を作るところから始める方が好きですので、これまでも、ずっとこの方式で集いを持ってきました。今では仲間もログのキッチンに慣れ、自分の家の様にしてログ生活を楽しんで貰っています。

 今回の集いで最も心配したのは天気のことです。集う日は1ヶ月前ぐらいに決めていたのですが、日が近付くと、週間予報では、当日は午後から風が強く、降雨の予報も出ていました。今回はデッキでのバーベキューを考えていましたが、風と雨ではデッキでのバーベキューはとても無理です。そこで、サンルームで魚料理を楽しむ内容に変更しました。ところが昨日の予報では降雨の予報が無くなったため、再度バーベキュー案に戻し、昨日最終的な買い物をしておきました。

 今日も10時に仲間がログに集まり、ご飯を炊いて握り寿司用の酢飯を作ったりバーベキュー用のお握りを作ったり、昨日入手したハマチで刺身を作ったり、冷凍したアオリイカを解凍して刺身にしたり、バーベキュー用の炭火を熾したり、ワイワイ言いながら食事の準備をしました。12時には準備も終わりデッキでバーベキューを始めましたが、幸いにも雨の心配は全くなく、12時から強風が吹くとの予報でしたが、風もそれほど強く吹かず、順調にバーベキューは進んでいきました。先ず、コンロに並んだのは塩焼き用の8匹の鯛です。炭火で焼く鯛は綺麗な焦げ目が出来てとても美味しそうに焼けました、8匹の鯛を焼き終えると後はいつもの定番メニューが続きましたが、どれもこれも美味しいと大好評でした。結局今回はいつものメンバーの内3名が都合でこれなくなり、ちょっぴり淋しく思いましたが、午後4時までしっかりと楽しい一時を過ごさせて貰いました。尚、来年からは、毎年12月の第2土曜日に集いを持つことを決めました

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 最初に焼き上がった鯛の塩焼きです、炭火で綺麗に焼けました。今回はSさんのお陰で一人一人に鯛の塩焼きが付きました。写真はこの1枚だけで、後はワイワイガヤガヤが盛り上がり過ぎて写真を撮るのをすっかり忘れてしまいました。いつものことながら申し訳ありません
posted by モグじー at 23:28| 徳島 ☁| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年12月04日

いよいよ始まりました!

又もや抽選漏れに!

 23時に大阪を出発した高速バスは福石(岡山)と喜志(福岡)でトイレ休憩を取ったあと予定通り今朝の9時前に目的地の熊本交通センターに到着しました。腰が痛くて何度も姿勢を変えましたが10時間の内6時間程度は眠れたのではないかと思います。バスを降りても身体はしっかりしていました。心配していた雨も霧雨が少し降っただけで全く問題は有りません、早速、裁判所に向かって歩きはじめました。熊本の町は2回目ですが今回驚いたのは街路樹のイチョウ並木でした。大阪に住んでいた頃、御堂筋のイチョウ並木を見たことが有りますが、綺麗さが全く違います、樹が生き生きしていて鮮やかな黄葉は素晴らしく歩道には枯れ落ちた葉がふんわりと積もっています、思わず写真を撮ってしまいました

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 街路樹のイチョウ並木は黄葉がとてもきれいで思わず見とれてしまいました

 前回は初めての熊本ですので、裁判所を目指して熊本駅から歩きましたが道に迷ってしまい2時間も掛かってしまいました。お蔭様で大体の街のイメージをつかむことが出来、今回は降車場所の交通センターから地裁まで20分余りで到着できました。9時半過ぎですので誰も関係者は来ていません。今日は1時から地裁正門前で門前集会を開き、その後、傍聴券を求めて並び、2時から公判が始まります。食事がてらに附近を散歩し12時に地裁に戻りました。ホールのイスには数名の方が来ておられましたので、モグジーも椅子に座り読書をして時間が来るのを待ちました。1時頃になると100名近くの関係者が集まってきましたので、門前集会が始めりました。弁護団長や訴訟団長の挨拶が有った後、入廷行動が有り、我々は原告団や弁護団を見送った後、傍聴券を求めて並びました。

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 列を組んで入廷する原告団と弁護団です、最前列左から2人目の方が原告団団長の林力さん(93才)で右端が副団長の黄光男君(62才)です

 地裁の法廷は狭く傍聴席は30席余りしか有りません。前回は傍聴を求めて100名近くが並び、モグジーは抽選漏れとなりましたが、ある方に傍聴券を譲っていただき傍聴することが出来ましたが、今回は130名余りの方が並んでおり、かなり悲観的になりましたが、予想通り抽選に外れました。致し方ありませんので、裁判中は近くの熊本城公園に行き一時を過ごしました。熊本の町は地震による被害の後は殆ど目立たなくなりましたが、熊本城は復旧には大変な時間が掛かるようで、あちこちに、無残な姿が見えます。築城以来、何度も地震は有ったと思われますが、殆ど当時の被害は残っていないのに、今回の地震による被害は甚大で改めて地震の怖さを思い知らされます、それでも、復旧工事が急ピッチで進められているようです。

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 天守閣の工事も急ピッチで進められていました


本格的な攻防が始まる

 今日の第7回口頭弁論期日では黒坂愛衣、東北学院大学准教授の証人尋問が行われます。証人の意見陳述に続いて原告側、被告側、裁判官の証人尋問が行われますが、証人の意見陳述だけでも1時間はかかると聞いていますので、審理は時間が掛かると思い、モグジーは4時に地裁に戻りました。しかし、審理はまだ終わっておらず、外で待ち受ける関係者は、審理がどのような状況に進んでいるのか心配しながら待っていましたが結局、審理が終わったのは午後5時前でした黒坂さんの意見陳述の内容については審理が始まる前に、弁護団から意見書のコピーが配布されていましたので読んで理解できていました。しかし、モグジーを初め、遠くから裁判を傍聴するために集まった関係者の内、大半の者が傍聴できず、皆、長い審理の中でどんなやりとりがあったのか、全く分かりません。

  関係者は近くのホテルで5時半から開かれる報告集会に駆けつけ、弁護士からの報告を一字一句聞き逃すまいと思って必死で聞きました。黒坂さんは、2004年から現在まで多くのハンセン病であった人々やその家族から聞き取り調査を行い、差別の実態を明らかにしてきましたが、今日の意見陳述では、特に家族が受けた被害について、社会学者として詳細かつ具体的にその内容を陳述されたそうです。これまでの審理では殆ど反対尋問をしなかった被告・国側の弁護団から、今日は執拗な尋問が有ったそうです。

 今回の裁判では568名の原告が国の誤ったハンセン病に対する政策の結果として受けた被害に対する賠償金を一人当たり500万円として請求しております。その根拠を黒坂さんは意見陳述の中で強調しました。しかし、国側は差別の実態は個々人によって違い、請求できない人もいるのではないかとの論旨で尋問を繰り返したとのことです。裁判官は基本的には事実に即した証拠によって判断します。患者本人の国家賠償請求訴訟では、原告患者全員に対し均等の国家賠償を請求しましたが、2001年の判決では裁判所は原告患者の入所時期、入所期間によって賠償金額に差額を付けた判決を出しています。入所期間は療養所の記録に残っているため実態がかなり正確に把握できますが、差別の実態を証拠を示して訴えるのは非常に困難であり、これからの裁判闘争の難しさが予見されます。どのような物差しを提示すれば壁を越えることが出来るのか…



隣の席も埋まる!

 7時前に報告集会が終わり引き続き懇親会が有るとのことですが、今回は懇親会は欠席することにしました。前回は裁判当日は熊本に泊ったのですが、今回は交通センターを午後9時半に出る夜行バスに乗らなければなりません。移動の時間、夕食の時間等を考えるとあまりゆっくりできませんので、報告会が終わると交通センターを目指して歩きました。夕食を交通センター近くでとることにしましたが疲れているので、ゆっくりと時間を過ごせるところで食事をとりたいと思い、商店街の中をあちこちと歩きました。しかし、適当な店がどうしても見つかりません。色々と迷いましたが最後は日頃は先ずは入らないマクドナルドに入りました。ここだったら、本を読みながら時間が潰せそうです。注文の仕方も分からず戸惑いましたが、何とか、ハンバーガーなどを注文して2階に上りました。そこにはテーブルとイスが沢山置いてあり、皆、思い思いに時間を過ごしています。マックで正解でした、ハンバーガーやポテトチップスをかじりながら、本を読んでゆっくりとバスの出発時刻を待つことが出来ました。これで、ハンバーガーが好きだったら問題なしですが、ハンバーガーはちょっと苦手なもので…

 9時半に予約していた夜行バスに乗り込みました。一緒に乗りこんだのは数名でしたので、平日は少ないかもとちょっぴり期待したのですが、バスに乗り込むとすでに熊本駅で乗り込んだ人が結構いました。それでも、途中停まった3ヶ所の停留所では隣の席が埋まらなかったのですが、最後の停留所で隣に若い男性が乗り込んできて万事休すです。ただ、熊本に来るときも、一つ座席で殆どの人が長時間を過ごしていましたので、頑張ってみることにしました。同じ姿勢を続けるのが良くないと思い、100均の枕とクッションを膨らませて、体位に変化を付けることに力を入れました。枕は首に挟んだままにして、クッションをお尻から背中に掛けて30分ごとに移動させ姿勢を変えました。これが効果が有ったのか、正面を向いて座ったママでもそれほど腰は痛くならず、半分以上の時間を寝て過ごすことが出来ました。この経験はモグジーにとっては大収穫です、これだったら4人掛けシートも怖くなくなり、これからは夜行バスも心配せずに利用できそうです。

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2017年12月03日

傍聴のため熊本へ

今回は高速バスで

 12月4日に熊本地裁でハンセン病家族訴訟の第7回口頭弁論期日が有りますので前回に引き続き傍聴するため熊本に向かいます。前回はフェリーで徳島〜門司を往復し、JR電車で門司〜熊本を往復しましたが、今回はどのような交通手段を使うか色々と検討した結果、最終的には高速バス利用することにしました。高速バスで熊本に行く方法は直通便はない為、@徳島〜博多〜熊本便、A徳島〜神戸〜熊本、B徳島〜大阪〜熊本の内から一つを選ばなければなりません。値段的には@とBが片道9000円程度でAが2000円ほど高くなります。今回はBを選びました、理由は熊本〜神戸は熊本〜大阪に比べ2000円余り高いのと神戸〜徳島のバス便が少ないためです。大阪経由の場合、熊本行きのバスは23時に大阪を出発しますので、今日は1日が有効に使えますし、5日も午前中に帰って来れるため丸1日潰れるのは4日の1日だけです。フェリーで行った時は丸3日が潰れましたので、多忙な今の時期は時間を取ることにし、夜行バスを選択した次第です。



K君に会えて良かった

 今回、大阪経由を選んだのは大阪で人に会えるからです。23時発であればゆっくりと人と会うことが出来ます。誰に会おうかと考えた時、真っ先に頭に浮かんだのがK君でした。K君は先日の関西テレビのドキュメント「誰にも言えなかった」に登場したF君にとっては欠かすことのできない友人で私自身が教師になって最も学ばせてもらった生徒です。そして、交換ノートで何度も思いを書いてF君を励ましてくれました。私達家族が兵庫県を離れ大島に住んでいた、「俺の嫁さんを見てくれ」と言って夫婦で島を訪ねてくれたK君夫妻、私達夫婦にとっても大切な存在でした。被差別の厳しい環境で育ったK君、必死で生きてきたK君が定年前の55歳で早期退職しました。退職理由を深くは語らなかったため、彼なりの思いが有って早期退職したと思っていましたが、きちんと理由を聞くこともなく今日に至っていました。今回は時間がたっぷりありましたので、お互いに、色々なことを話し合いました。彼の口から語られた退職理由を聞いたとき、どんな状況でも弱音を吐かなかったK君が退職を選択せざるを得なかった苦境に、返す言葉も有りませんでした。K君を支え続けたお嫁さんや子供たちの力も有って、昔の儘、まっとうに生きているK君の姿を見て心からの喜びを感じました。K君の口から語られるお嫁さんや子供たちやお孫さんの話に相槌をうちつつ、お嫁さん手作りの夕食を食べているとあっという間に3時間が過ぎ、慌てて帰り支度をし大阪へと急ぎました。無事にバスに乗れホッとし、K君との話を思い出しながらもとても豊かな気持ちで熊本に向かうことができました。



ラッキー! 隣が居ない!

 モグジーは電車に乗ったり、バスに乗ったりするのは全く苦になりませんと言うより楽しくて好きなのです、又、お金がなかったことも有りますが、長距離を各駅停車で行くのも全く苦にならず、大学の時はいつも山口まで夜行の各駅停車で帰省していたし、大学生の時は北海道まで各駅停車で3日間かけて行きました。東京にも各駅停車で行っていましたが、そのうちに夜行の普通長距離列車が無くなり、結局は新幹線を利用するようになりました。でも、新幹線ほどつまらないものは有りません、景色も楽しめないし、全く旅をしている気分になれません。安い値段で長時間楽しめる各駅停車の旅は最高です。子供たちが東京で暮らすようになると夜行バスで往復していました。昔は夜行バスに乗ってもそれほど苦にはならなかったのですが、年を取ると腰が痛くなりあまり眠れなくなり、最近は専ら車で東京まで走っています。最近は一人での車の長距離移動は危険と言って妻から許可がおりませんし、金額的にも高くつくので、公共交通機関を利用するようになりました。熊本行きも勿論車での移動は許可が出ませんので、交通機関を利用することにしました。前回はフェリーでしたので身体は楽だったのですが、今後何度も熊本に行くのであれば、毎回フェリーを利用するのも気が進みません。そこで思い切って夜行バスにしたものの、一番の心配は長時間耐えられるかと言うことです。東京までは7〜8時間ですが熊本までは10時間掛かります。しかも、値段が最安の便を選んだため4列シートですので身動きがほとんど不可能です。そこで、今回は、乗る前に100均で枕とクッションを購入しました。これで少しは身体が楽になるかと思っていましたら、何とバスに乗ったところ8割程度席が埋まっていたのに幸運なことにモグジーの隣の席は誰も乗りこんできませんでした。これだったら少しは楽かもしれないと思いましたが、いざ、バスが走り出し、時間が経つにつれ腰が痛くなって来ました。色々と2人分の席を使って姿勢を換え、何とか10時間を耐えましたが、殆どの方は一つの席でずっと耐えておられました。帰りはどうなるのだろうかといささか不安になりました。
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2017年11月20日

ここに兄が居ります!

4人の男の子を女手一つで育てあげたお母さん

 モグジーの姉は高校を卒業すると銀行に勤めましたが、すぐにお客さんに気に入られて見合いをし20歳になると結婚してしまいました。嫁ぎ先は樫製材工場を経営しておられ、4人の男の子がいましたが義父は戦争で亡くなられ、義母が女手一つで4人の子供を育てられ、家業を継いだ長男と一緒になったのです。20歳で世間のことは何も知らない姉にとっては余りに厳しい環境ですので、モグジーの両親は結婚に反対しましたが姉は嫁ぎました。
 長男の嫁として、工場の経理担当者として、妻として、2児の母親として、大変な人生だったと思いますが、最後まで与えられた仕事をやり通しました。義母との間でも色々と難しいことも有ったと思いますが、頑張り通しました。その頑張りが過ぎたのか70歳を超えた頃から少しずつ認知症が出て数年前からグループホームに入りました。そのため、義母を最後までお世話することが出来なかったことは姉にとっては残念極まりないことだったと思います。姉の夫も仕事一途の人でしたので体に無理が重なったのか、年を取ると共に体調を崩し3年前からはずっと病院生活が続いています。その中で義母だけがお元気でした。モグジーは年に2〜3回は山口に帰って3人のお見舞いに行っていましたが、3人の中で一番元気なのは義母でした。今年で103歳になられていましたが、とてもそんな年齢とは思えないほどしっかりしておられました。ただ一人での生活は無理ですので、老人ホームに入りお元気に日々を送っておられました。姉夫婦は必死で働き、後継ぎも出来て、これからは、やっと、好きな旅行に行けると思っていた矢先の姉の病気が出、姉の世話を一所懸命して下さった義兄までが膝や心臓や呼吸器に色々な症状が出て入院生活を送らざるを得なくなったのです。何とひどい仕打ちをとモグジーも神をも恨みましたがどうにもなりません。
 ただ、男ばかり4人の兄弟と言えば、人間関係が難しくなるのが普通ですが、高齢の母親、入院中の長男や四男の世話を姉の二人の娘や次男や三男の方が協力してやっておられます。4人の男兄弟の仲の良さには本当に感心させられます。
 長男である姉の旦那さんは最近特に体調が悪く点滴で何とか命を繋いでいる状態でしたが、長男として母親を思う気持ちは非常に強く、何とか母にお別れをしたいという願いが主治医に通じたのか、主治医から「ストレッチャーに乗ったまま短時間なら外出を許可します」と言われ家族がストレッチャーで母親の所まで連れて行ったそうです。



ここに兄がいます、私には見えます!

 今日は11時から葬儀が有りました、葬儀が終わった後の挨拶に立たれた次男の方は前に出て、三男、四男の方と並ばれ、「私の左には兄が立っています、私には兄の姿が見えます。私達4人は喧嘩をし怒られたことも何度も有りましたが、それでも力を合わせて今日まで母と一緒に生きてきました母には4人の子供、10人の孫、13人のひ孫、1人のやしゃ孫がいます」と言って挨拶をされましたが、お母さんの喜寿などのお祝いのときは殆どの家族が集合され、その人数は数十人にもなります。その身内のつながりの深さにはモグジーもいつも圧倒されてきましたが、お母さんを中心とした素晴らしい大家族だと常々思ってきました。モグジーも少しでも見習いたいと思って今日まで生きてきましたが、とても及びません。これだけの大家族を育てられ、その大家族に見守られて旅立たれたお母さんにとっては正に大往生の姿しか思い浮かびません。
 モグジーは姉が嫁いで52年間一緒に生きてきたお母さんに姉に代わってお礼を言うために葬儀に参加させて戴きましたが、大勢の家族だけに見送られた家族葬は見事で、お母さんご遺体は孫の手で出棺となりました。


姉さん良かったね!

 葬儀が始まる前に控室で兄弟の方々と話しているときに、ある御兄弟から、「お姉さんのお陰で僕たち4人が仲良くやって来れたと思います。私たちの家族のためにお姉さんには本当に良くして貰いました。お姉さんが居られなかったら、大勢の家族が集まったりすることは無かったと思います、お姉さんは本当に良くしてくださいました、それだけにお姉さんの姿を見るのがつらくて会いに行けないのです」と言われ、モグジーはとても嬉しく思いました。「小さな体で一所懸命がんばったお姉さん良かったね」と心から思いました。
 葬儀の前に、姪とグループホームに姉の面会に行きましたが、今日は最近では珍しく、しっかりしていて表情も豊かでした、多分、今日が大切な日と言うことを姉も分かってくれていたのではないかと思います。気持ち良く、義母にありがとうございましたと姉の代わりに言うことができました

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 今日は久しぶりに姉の声を沢山聴くことがで来ました、笑顔も沢山見せて貰いました
posted by モグじー at 23:49| 徳島 ☁| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月19日

中国残留日本人孤児の歴史を語り継ぐために

初めての参加

 モグジーが敗戦直後の8月18日に満州撫順で生まれたことは私自身の原点ですので、このブログでも何度か書かせて戴きました。極限状態の中で乳児を連れて帰るのは非常に危険であり、中国人に生後間もない私を貰って貰うか、死を覚悟で連れて帰るか随分迷ったことを両親から聞かされました。実際に連れて帰る道中で私は栄養失調に為、何度も死にかけたそうです。そのような成育歴を持った私にとっては中国残留日本人孤児の問題は決して他人事ではありませんでした。NHK製作の「大地の子」を見ては何度涙を流したことでしょうか。しかし、私は中国残留日本人孤児問題に深くかかわることなく、今日まで生きてきました。そしてこのまま死を迎えようとしていました。でも、ある方を通して切れていた絆がかすかですが繋がろうとしています。

 先日のブログでモグジーが関西テレビの「ザ・ドキュメント」の取材を受けたことを書きましたが、担当ディレクターのSさんが中国残留日本人孤児問題に長年関わって来られ、ドキュメンタリーを2本作っておられることを聞きました。この度、神戸で、そのドキュメンタリー作品「兄と弟〜満州思い出の河へ〜」の上映とSさんの講演があることを知り、今日、集会に行ってきました。

 今回は私一人ですのでバスで三ノ宮まで行き、新長田駅前のホールに12時頃到着しました。ホールの前のベンチに腰を掛け開場を待ちましたが、集まって来られる方は年配の方々ばかりです。先日、熊本で開催されたハンセン病家族の国賠訴訟を支援する集会でも同じことを感じましたが、このような集会で若い人たちの姿を見れないのは本当に淋しいことです。10年前、中国残留日本人孤児問題で国の責任を問い国家賠償を求める裁判が全国で行われ、唯一、兵庫県だけで国の違法性が認められましたが、他府県では全て敗訴となりました。そして、裁判を通して支援の会が結成された兵庫県では現在も支援活動が続いていて、今日の会も主催しています。

 集会は、主催者側の挨拶の後、アトラクションの和太鼓演奏を挟んで、残留孤児2世の体験談の発表が有りました。中国残留日本人孤児の存在は私の頭の中に在りましたが、2世のことは全く抜けていました。10代、20代で帰国した2世は日本語が全く話せず、生活様式、文化が違う日本で生きるのは大変でした。集会の参加者は大半が在留孤児の1世と2世で日本語が理解できない人も多かったのか、スピーチは逐一中国語に翻訳されていました。
 休憩をはさんで、先ずは、Sさんが2016年に製作された関西テレビのザ・ドキュメント「兄と弟〜満州思い出の河へ〜」が放映されました

内容を簡単に紹介しますと
 『敗戦の1年前に開拓団として京都から満州に渡ったKさん一家は父親を徴兵され残された家族は、翌年8月の敗戦で逃避行の末難民収容所にたどり着く。ここで母親と祖父が死亡、残された3歳と7歳の兄弟は、弟が中国人に引き取られ、兄は戦争孤児となる。兄は帰国できたが、弟は48歳で残留日本人として中国人の妻と3人の子供を連れて日本に帰国。兄は弟の就職や生活全般にわたって世話をしたが日本語が離せない弟は仕事を辞め、日本での生活に行き詰まり、兄との間に深い溝が出来てしまった。何とか弟との絆を取り戻す為、身元確認の際に決め手となった満州の思いでの河に弟を誘った。しかし、余りに深い溝は二人で思いでの場所を訪れても一気には埋まりません…』

 ドキュメンタリーを見ていると、本当に、モグジー自身のこと、3歳上の兄のこと、5歳上の姉のことがそして両親のことが重なり、とても複雑な思いとなりました。幸いにもモグジーの場合は家族全員が揃って何とか帰国できましたが、死んだ子供を背負ったまま、なかなか子供を離そうとしない母親の話を聞いたとき、涙が出て仕方が有りませんでした。



余りに遅すぎる対応

 最後に、ドキュメンタリーのディレクターSさんの講演が有りました。パワーポイントを使いながら、日本の国策として、満州開拓が進められ、多くの都道府県から開拓団が満州に送られたこと、敗戦と同時に開拓団が見捨てられたこと、その中で多くの婦女子が飢餓と病気で亡くなり、現地には多くの人々が取り残され、残留邦人となったこと、残留邦人は戦後も放置され続け、日中国交正常化以降になってやっと中国残留日本人孤児の肉親捜しが始まったことなどが紹介されました。この中国残留日本人孤児の問題を考える時、多くの問題が浮かび上がってきますがその中で特に忘れてならないのは政府の姿勢です1959年に「未帰還者に対する特別措置法」を制定し残留孤児等の戸籍を戦時死亡宣言で抹消したのです。肉親を必死で探していた家族の思いを無視して国は開拓団として派遣した国民を見捨てたのです。残してきた家族を必死で探す家族の思いを受け入れ残留孤児訪問調査団を受け入れたのは戦後36年が過ぎ去った1981年のことでした、更に多くの残留孤児が帰国できたのは1980年代後半で、残留孤児の年齢は40代半ばを過ぎていました。なぜ、家族の強い要望が有ったのに、これほど、長い間、国は見捨てて来たのか、Sさんもおっしゃたように国の取り組みは余りに遅すぎました。この事はハンセン病政策にも重なります。ハンセン病予防法がもっと早く廃止されていたら、中国残留日本孤児の帰国がもっと早く実現されていたら…Sさんは国の責任と共にメディアの責任についても触れておられましたが、国の過ちを正せない私たちにも責任があります



突然の電話

 会場の中ですので携帯電話はマナーモードにしていました、話を聞き、映像を見ながらモグジーは兄弟や肉親のことを考えていました。突然、携帯が振動し画面を見ると山口の姪からでした。私の姉の次女で、グループホームに入っている私の姉や病院に入院中の父親や老人ホームに入所中の祖母の世話で走り回っています。時々メールで情報を送ってくれるのですが、昼間に電話が掛かることは先ずありません。こんな時間に電話を掛けてきたということは緊急の用事に間違いありません。真っ先に思ったのは姉の急変でした、集会で兄や姉のことを何度も思い浮かべただけに、何故か不安になりました。でも、大切な話しを聞いていますし、前の方に座っていましたので、外に出て行く訳にも行きません。集会が終わり外に出るとすぐに姪に電話を入れました、姪からの連絡は姪の祖母が昨晩急逝したとのことでした。姉や姉の夫のことではなくて取り敢えずホッとしました。姪の祖母は先日103歳の誕生日が終わったところですので大往生です。今夜が通夜で明日葬式とのことですので、山口まで駆けつけなければなりません。鳴門に帰って山口に行くのでは大回りになりますので、神戸から直行することにしました。帰りのバスチケットをキャンセルし取り敢えず下り快速電車に飛び乗りました。岡山で新幹線に乗り換え、新山口で降りて山口線に乗り換え、山口市に在る葬祭場に着いたのは午後10時でした。通夜の会場には姉の上の娘たちが残っていましたので、すぐに仏様に会わせて貰いましたが、姪が言うように、寝っているだけで声を掛けたら目を開けて貰えるのではないかと思うほど、とても穏やかで、安らかな顔でした。
 取り敢えず、今晩は夜伽の会場で一晩を送らせて貰うことにしました。それにしても、色々なことが有った1日でした。



放映は11月28日と決まりました

 先日、ログで取材を受けた関西テレビのザ・ドキュメント「誰にも言えなかった〜ハンセン病家族の告白〜」の放映が関西テレビで11月28日25時25分〜26時35分に決まったとの連絡がSさんから届きました、深夜の番組ですので良かったら録画をとってお昼にでも見て戴ければと思います。
 又、番組の予告編が関西テレビのホームページで見れるとのことです

 ホームページのアドレスは
                  https://www.ktv.jp/document/

 余りにモグジーのことを良い様に書かれ照れくさくて…
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posted by モグじー at 20:49| 徳島 ☁| Comment(6) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

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