2017年12月04日

いよいよ始まりました!

又もや抽選漏れに!

 23時に大阪を出発した高速バスは福石(岡山)と喜志(福岡)でトイレ休憩を取ったあと予定通り今朝の9時前に目的地の熊本交通センターに到着しました。腰が痛くて何度も姿勢を変えましたが10時間の内6時間程度は眠れたのではないかと思います。バスを降りても身体はしっかりしていました。心配していた雨も霧雨が少し降っただけで全く問題は有りません、早速、裁判所に向かって歩きはじめました。熊本の町は2回目ですが今回驚いたのは街路樹のイチョウ並木でした。大阪に住んでいた頃、御堂筋のイチョウ並木を見たことが有りますが、綺麗さが全く違います、樹が生き生きしていて鮮やかな黄葉は素晴らしく歩道には枯れ落ちた葉がふんわりと積もっています、思わず写真を撮ってしまいました

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 街路樹のイチョウ並木は黄葉がとてもきれいで思わず見とれてしまいました

 前回は初めての熊本ですので、裁判所を目指して熊本駅から歩きましたが道に迷ってしまい2時間も掛かってしまいました。お蔭様で大体の街のイメージをつかむことが出来、今回は降車場所の交通センターから地裁まで20分余りで到着できました。9時半過ぎですので誰も関係者は来ていません。今日は1時から地裁正門前で門前集会を開き、その後、傍聴券を求めて並び、2時から公判が始まります。食事がてらに附近を散歩し12時に地裁に戻りました。ホールのイスには数名の方が来ておられましたので、モグジーも椅子に座り読書をして時間が来るのを待ちました。1時頃になると100名近くの関係者が集まってきましたので、門前集会が始めりました。弁護団長や訴訟団長の挨拶が有った後、入廷行動が有り、我々は原告団や弁護団を見送った後、傍聴券を求めて並びました。

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 列を組んで入廷する原告団と弁護団です、最前列左から2人目の方が原告団団長の林力さん(93才)で右端が副団長の黄光男君(62才)です

 地裁の法廷は狭く傍聴席は30席余りしか有りません。前回は傍聴を求めて100名近くが並び、モグジーは抽選漏れとなりましたが、ある方に傍聴券を譲っていただき傍聴することが出来ましたが、今回は130名余りの方が並んでおり、かなり悲観的になりましたが、予想通り抽選に外れました。致し方ありませんので、裁判中は近くの熊本城公園に行き一時を過ごしました。熊本の町は地震による被害の後は殆ど目立たなくなりましたが、熊本城は復旧には大変な時間が掛かるようで、あちこちに、無残な姿が見えます。築城以来、何度も地震は有ったと思われますが、殆ど当時の被害は残っていないのに、今回の地震による被害は甚大で改めて地震の怖さを思い知らされます、それでも、復旧工事が急ピッチで進められているようです。

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 天守閣の工事も急ピッチで進められていました


本格的な攻防が始まる

 今日の第7回口頭弁論期日では黒坂愛衣、東北学院大学准教授の証人尋問が行われます。証人の意見陳述に続いて原告側、被告側、裁判官の証人尋問が行われますが、証人の意見陳述だけでも1時間はかかると聞いていますので、審理は時間が掛かると思い、モグジーは4時に地裁に戻りました。しかし、審理はまだ終わっておらず、外で待ち受ける関係者は、審理がどのような状況に進んでいるのか心配しながら待っていましたが結局、審理が終わったのは午後5時前でした黒坂さんの意見陳述の内容については審理が始まる前に、弁護団から意見書のコピーが配布されていましたので読んで理解できていました。しかし、モグジーを初め、遠くから裁判を傍聴するために集まった関係者の内、大半の者が傍聴できず、皆、長い審理の中でどんなやりとりがあったのか、全く分かりません。

  関係者は近くのホテルで5時半から開かれる報告集会に駆けつけ、弁護士からの報告を一字一句聞き逃すまいと思って必死で聞きました。黒坂さんは、2004年から現在まで多くのハンセン病であった人々やその家族から聞き取り調査を行い、差別の実態を明らかにしてきましたが、今日の意見陳述では、特に家族が受けた被害について、社会学者として詳細かつ具体的にその内容を陳述されたそうです。これまでの審理では殆ど反対尋問をしなかった被告・国側の弁護団から、今日は執拗な尋問が有ったそうです。

 今回の裁判では568名の原告が国の誤ったハンセン病に対する政策の結果として受けた被害に対する賠償金を一人当たり500万円として請求しております。その根拠を黒坂さんは意見陳述の中で強調しました。しかし、国側は差別の実態は個々人によって違い、請求できない人もいるのではないかとの論旨で尋問を繰り返したとのことです。裁判官は基本的には事実に即した証拠によって判断します。患者本人の国家賠償請求訴訟では、原告患者全員に対し均等の国家賠償を請求しましたが、2001年の判決では裁判所は原告患者の入所時期、入所期間によって賠償金額に差額を付けた判決を出しています。入所期間は療養所の記録に残っているため実態がかなり正確に把握できますが、差別の実態を証拠を示して訴えるのは非常に困難であり、これからの裁判闘争の難しさが予見されます。どのような物差しを提示すれば壁を越えることが出来るのか…



隣の席も埋まる!

 7時前に報告集会が終わり引き続き懇親会が有るとのことですが、今回は懇親会は欠席することにしました。前回は裁判当日は熊本に泊ったのですが、今回は交通センターを午後9時半に出る夜行バスに乗らなければなりません。移動の時間、夕食の時間等を考えるとあまりゆっくりできませんので、報告会が終わると交通センターを目指して歩きました。夕食を交通センター近くでとることにしましたが疲れているので、ゆっくりと時間を過ごせるところで食事をとりたいと思い、商店街の中をあちこちと歩きました。しかし、適当な店がどうしても見つかりません。色々と迷いましたが最後は日頃は先ずは入らないマクドナルドに入りました。ここだったら、本を読みながら時間が潰せそうです。注文の仕方も分からず戸惑いましたが、何とか、ハンバーガーなどを注文して2階に上りました。そこにはテーブルとイスが沢山置いてあり、皆、思い思いに時間を過ごしています。マックで正解でした、ハンバーガーやポテトチップスをかじりながら、本を読んでゆっくりとバスの出発時刻を待つことが出来ました。これで、ハンバーガーが好きだったら問題なしですが、ハンバーガーはちょっと苦手なもので…

 9時半に予約していた夜行バスに乗り込みました。一緒に乗りこんだのは数名でしたので、平日は少ないかもとちょっぴり期待したのですが、バスに乗り込むとすでに熊本駅で乗り込んだ人が結構いました。それでも、途中停まった3ヶ所の停留所では隣の席が埋まらなかったのですが、最後の停留所で隣に若い男性が乗り込んできて万事休すです。ただ、熊本に来るときも、一つ座席で殆どの人が長時間を過ごしていましたので、頑張ってみることにしました。同じ姿勢を続けるのが良くないと思い、100均の枕とクッションを膨らませて、体位に変化を付けることに力を入れました。枕は首に挟んだままにして、クッションをお尻から背中に掛けて30分ごとに移動させ姿勢を変えました。これが効果が有ったのか、正面を向いて座ったママでもそれほど腰は痛くならず、半分以上の時間を寝て過ごすことが出来ました。この経験はモグジーにとっては大収穫です、これだったら4人掛けシートも怖くなくなり、これからは夜行バスも心配せずに利用できそうです。

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2017年12月03日

傍聴のため熊本へ

今回は高速バスで

 12月4日に熊本地裁でハンセン病家族訴訟の第7回口頭弁論期日が有りますので前回に引き続き傍聴するため熊本に向かいます。前回はフェリーで徳島〜門司を往復し、JR電車で門司〜熊本を往復しましたが、今回はどのような交通手段を使うか色々と検討した結果、最終的には高速バス利用することにしました。高速バスで熊本に行く方法は直通便はない為、@徳島〜博多〜熊本便、A徳島〜神戸〜熊本、B徳島〜大阪〜熊本の内から一つを選ばなければなりません。値段的には@とBが片道9000円程度でAが2000円ほど高くなります。今回はBを選びました、理由は熊本〜神戸は熊本〜大阪に比べ2000円余り高いのと神戸〜徳島のバス便が少ないためです。大阪経由の場合、熊本行きのバスは23時に大阪を出発しますので、今日は1日が有効に使えますし、5日も午前中に帰って来れるため丸1日潰れるのは4日の1日だけです。フェリーで行った時は丸3日が潰れましたので、多忙な今の時期は時間を取ることにし、夜行バスを選択した次第です。



K君に会えて良かった

 今回、大阪経由を選んだのは大阪で人に会えるからです。23時発であればゆっくりと人と会うことが出来ます。誰に会おうかと考えた時、真っ先に頭に浮かんだのがK君でした。K君は先日の関西テレビのドキュメント「誰にも言えなかった」に登場したF君にとっては欠かすことのできない友人で私自身が教師になって最も学ばせてもらった生徒です。そして、交換ノートで何度も思いを書いてF君を励ましてくれました。私達家族が兵庫県を離れ大島に住んでいた、「俺の嫁さんを見てくれ」と言って夫婦で島を訪ねてくれたK君夫妻、私達夫婦にとっても大切な存在でした。被差別の厳しい環境で育ったK君、必死で生きてきたK君が定年前の55歳で早期退職しました。退職理由を深くは語らなかったため、彼なりの思いが有って早期退職したと思っていましたが、きちんと理由を聞くこともなく今日に至っていました。今回は時間がたっぷりありましたので、お互いに、色々なことを話し合いました。彼の口から語られた退職理由を聞いたとき、どんな状況でも弱音を吐かなかったK君が退職を選択せざるを得なかった苦境に、返す言葉も有りませんでした。K君を支え続けたお嫁さんや子供たちの力も有って、昔の儘、まっとうに生きているK君の姿を見て心からの喜びを感じました。K君の口から語られるお嫁さんや子供たちやお孫さんの話に相槌をうちつつ、お嫁さん手作りの夕食を食べているとあっという間に3時間が過ぎ、慌てて帰り支度をし大阪へと急ぎました。無事にバスに乗れホッとし、K君との話を思い出しながらもとても豊かな気持ちで熊本に向かうことができました。



ラッキー! 隣が居ない!

 モグジーは電車に乗ったり、バスに乗ったりするのは全く苦になりませんと言うより楽しくて好きなのです、又、お金がなかったことも有りますが、長距離を各駅停車で行くのも全く苦にならず、大学の時はいつも山口まで夜行の各駅停車で帰省していたし、大学生の時は北海道まで各駅停車で3日間かけて行きました。東京にも各駅停車で行っていましたが、そのうちに夜行の普通長距離列車が無くなり、結局は新幹線を利用するようになりました。でも、新幹線ほどつまらないものは有りません、景色も楽しめないし、全く旅をしている気分になれません。安い値段で長時間楽しめる各駅停車の旅は最高です。子供たちが東京で暮らすようになると夜行バスで往復していました。昔は夜行バスに乗ってもそれほど苦にはならなかったのですが、年を取ると腰が痛くなりあまり眠れなくなり、最近は専ら車で東京まで走っています。最近は一人での車の長距離移動は危険と言って妻から許可がおりませんし、金額的にも高くつくので、公共交通機関を利用するようになりました。熊本行きも勿論車での移動は許可が出ませんので、交通機関を利用することにしました。前回はフェリーでしたので身体は楽だったのですが、今後何度も熊本に行くのであれば、毎回フェリーを利用するのも気が進みません。そこで思い切って夜行バスにしたものの、一番の心配は長時間耐えられるかと言うことです。東京までは7〜8時間ですが熊本までは10時間掛かります。しかも、値段が最安の便を選んだため4列シートですので身動きがほとんど不可能です。そこで、今回は、乗る前に100均で枕とクッションを購入しました。これで少しは身体が楽になるかと思っていましたら、何とバスに乗ったところ8割程度席が埋まっていたのに幸運なことにモグジーの隣の席は誰も乗りこんできませんでした。これだったら少しは楽かもしれないと思いましたが、いざ、バスが走り出し、時間が経つにつれ腰が痛くなって来ました。色々と2人分の席を使って姿勢を換え、何とか10時間を耐えましたが、殆どの方は一つの席でずっと耐えておられました。帰りはどうなるのだろうかといささか不安になりました。
posted by モグじー at 21:45| 徳島 ☀| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月20日

ここに兄が居ります!

4人の男の子を女手一つで育てあげたお母さん

 モグジーの姉は高校を卒業すると銀行に勤めましたが、すぐにお客さんに気に入られて見合いをし20歳になると結婚してしまいました。嫁ぎ先は樫製材工場を経営しておられ、4人の男の子がいましたが義父は戦争で亡くなられ、義母が女手一つで4人の子供を育てられ、家業を継いだ長男と一緒になったのです。20歳で世間のことは何も知らない姉にとっては余りに厳しい環境ですので、モグジーの両親は結婚に反対しましたが姉は嫁ぎました。
 長男の嫁として、工場の経理担当者として、妻として、2児の母親として、大変な人生だったと思いますが、最後まで与えられた仕事をやり通しました。義母との間でも色々と難しいことも有ったと思いますが、頑張り通しました。その頑張りが過ぎたのか70歳を超えた頃から少しずつ認知症が出て数年前からグループホームに入りました。そのため、義母を最後までお世話することが出来なかったことは姉にとっては残念極まりないことだったと思います。姉の夫も仕事一途の人でしたので体に無理が重なったのか、年を取ると共に体調を崩し3年前からはずっと病院生活が続いています。その中で義母だけがお元気でした。モグジーは年に2〜3回は山口に帰って3人のお見舞いに行っていましたが、3人の中で一番元気なのは義母でした。今年で103歳になられていましたが、とてもそんな年齢とは思えないほどしっかりしておられました。ただ一人での生活は無理ですので、老人ホームに入りお元気に日々を送っておられました。姉夫婦は必死で働き、後継ぎも出来て、これからは、やっと、好きな旅行に行けると思っていた矢先の姉の病気が出、姉の世話を一所懸命して下さった義兄までが膝や心臓や呼吸器に色々な症状が出て入院生活を送らざるを得なくなったのです。何とひどい仕打ちをとモグジーも神をも恨みましたがどうにもなりません。
 ただ、男ばかり4人の兄弟と言えば、人間関係が難しくなるのが普通ですが、高齢の母親、入院中の長男や四男の世話を姉の二人の娘や次男や三男の方が協力してやっておられます。4人の男兄弟の仲の良さには本当に感心させられます。
 長男である姉の旦那さんは最近特に体調が悪く点滴で何とか命を繋いでいる状態でしたが、長男として母親を思う気持ちは非常に強く、何とか母にお別れをしたいという願いが主治医に通じたのか、主治医から「ストレッチャーに乗ったまま短時間なら外出を許可します」と言われ家族がストレッチャーで母親の所まで連れて行ったそうです。



ここに兄がいます、私には見えます!

 今日は11時から葬儀が有りました、葬儀が終わった後の挨拶に立たれた次男の方は前に出て、三男、四男の方と並ばれ、「私の左には兄が立っています、私には兄の姿が見えます。私達4人は喧嘩をし怒られたことも何度も有りましたが、それでも力を合わせて今日まで母と一緒に生きてきました母には4人の子供、10人の孫、13人のひ孫、1人のやしゃ孫がいます」と言って挨拶をされましたが、お母さんの喜寿などのお祝いのときは殆どの家族が集合され、その人数は数十人にもなります。その身内のつながりの深さにはモグジーもいつも圧倒されてきましたが、お母さんを中心とした素晴らしい大家族だと常々思ってきました。モグジーも少しでも見習いたいと思って今日まで生きてきましたが、とても及びません。これだけの大家族を育てられ、その大家族に見守られて旅立たれたお母さんにとっては正に大往生の姿しか思い浮かびません。
 モグジーは姉が嫁いで52年間一緒に生きてきたお母さんに姉に代わってお礼を言うために葬儀に参加させて戴きましたが、大勢の家族だけに見送られた家族葬は見事で、お母さんご遺体は孫の手で出棺となりました。


姉さん良かったね!

 葬儀が始まる前に控室で兄弟の方々と話しているときに、ある御兄弟から、「お姉さんのお陰で僕たち4人が仲良くやって来れたと思います。私たちの家族のためにお姉さんには本当に良くして貰いました。お姉さんが居られなかったら、大勢の家族が集まったりすることは無かったと思います、お姉さんは本当に良くしてくださいました、それだけにお姉さんの姿を見るのがつらくて会いに行けないのです」と言われ、モグジーはとても嬉しく思いました。「小さな体で一所懸命がんばったお姉さん良かったね」と心から思いました。
 葬儀の前に、姪とグループホームに姉の面会に行きましたが、今日は最近では珍しく、しっかりしていて表情も豊かでした、多分、今日が大切な日と言うことを姉も分かってくれていたのではないかと思います。気持ち良く、義母にありがとうございましたと姉の代わりに言うことができました

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 今日は久しぶりに姉の声を沢山聴くことがで来ました、笑顔も沢山見せて貰いました
posted by モグじー at 23:49| 徳島 ☁| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年11月19日

中国残留日本人孤児の歴史を語り継ぐために

初めての参加

 モグジーが敗戦直後の8月18日に満州撫順で生まれたことは私自身の原点ですので、このブログでも何度か書かせて戴きました。極限状態の中で乳児を連れて帰るのは非常に危険であり、中国人に生後間もない私を貰って貰うか、死を覚悟で連れて帰るか随分迷ったことを両親から聞かされました。実際に連れて帰る道中で私は栄養失調に為、何度も死にかけたそうです。そのような成育歴を持った私にとっては中国残留日本人孤児の問題は決して他人事ではありませんでした。NHK製作の「大地の子」を見ては何度涙を流したことでしょうか。しかし、私は中国残留日本人孤児問題に深くかかわることなく、今日まで生きてきました。そしてこのまま死を迎えようとしていました。でも、ある方を通して切れていた絆がかすかですが繋がろうとしています。

 先日のブログでモグジーが関西テレビの「ザ・ドキュメント」の取材を受けたことを書きましたが、担当ディレクターのSさんが中国残留日本人孤児問題に長年関わって来られ、ドキュメンタリーを2本作っておられることを聞きました。この度、神戸で、そのドキュメンタリー作品「兄と弟〜満州思い出の河へ〜」の上映とSさんの講演があることを知り、今日、集会に行ってきました。

 今回は私一人ですのでバスで三ノ宮まで行き、新長田駅前のホールに12時頃到着しました。ホールの前のベンチに腰を掛け開場を待ちましたが、集まって来られる方は年配の方々ばかりです。先日、熊本で開催されたハンセン病家族の国賠訴訟を支援する集会でも同じことを感じましたが、このような集会で若い人たちの姿を見れないのは本当に淋しいことです。10年前、中国残留日本人孤児問題で国の責任を問い国家賠償を求める裁判が全国で行われ、唯一、兵庫県だけで国の違法性が認められましたが、他府県では全て敗訴となりました。そして、裁判を通して支援の会が結成された兵庫県では現在も支援活動が続いていて、今日の会も主催しています。

 集会は、主催者側の挨拶の後、アトラクションの和太鼓演奏を挟んで、残留孤児2世の体験談の発表が有りました。中国残留日本人孤児の存在は私の頭の中に在りましたが、2世のことは全く抜けていました。10代、20代で帰国した2世は日本語が全く話せず、生活様式、文化が違う日本で生きるのは大変でした。集会の参加者は大半が在留孤児の1世と2世で日本語が理解できない人も多かったのか、スピーチは逐一中国語に翻訳されていました。
 休憩をはさんで、先ずは、Sさんが2016年に製作された関西テレビのザ・ドキュメント「兄と弟〜満州思い出の河へ〜」が放映されました

内容を簡単に紹介しますと
 『敗戦の1年前に開拓団として京都から満州に渡ったKさん一家は父親を徴兵され残された家族は、翌年8月の敗戦で逃避行の末難民収容所にたどり着く。ここで母親と祖父が死亡、残された3歳と7歳の兄弟は、弟が中国人に引き取られ、兄は戦争孤児となる。兄は帰国できたが、弟は48歳で残留日本人として中国人の妻と3人の子供を連れて日本に帰国。兄は弟の就職や生活全般にわたって世話をしたが日本語が離せない弟は仕事を辞め、日本での生活に行き詰まり、兄との間に深い溝が出来てしまった。何とか弟との絆を取り戻す為、身元確認の際に決め手となった満州の思いでの河に弟を誘った。しかし、余りに深い溝は二人で思いでの場所を訪れても一気には埋まりません…』

 ドキュメンタリーを見ていると、本当に、モグジー自身のこと、3歳上の兄のこと、5歳上の姉のことがそして両親のことが重なり、とても複雑な思いとなりました。幸いにもモグジーの場合は家族全員が揃って何とか帰国できましたが、死んだ子供を背負ったまま、なかなか子供を離そうとしない母親の話を聞いたとき、涙が出て仕方が有りませんでした。



余りに遅すぎる対応

 最後に、ドキュメンタリーのディレクターSさんの講演が有りました。パワーポイントを使いながら、日本の国策として、満州開拓が進められ、多くの都道府県から開拓団が満州に送られたこと、敗戦と同時に開拓団が見捨てられたこと、その中で多くの婦女子が飢餓と病気で亡くなり、現地には多くの人々が取り残され、残留邦人となったこと、残留邦人は戦後も放置され続け、日中国交正常化以降になってやっと中国残留日本人孤児の肉親捜しが始まったことなどが紹介されました。この中国残留日本人孤児の問題を考える時、多くの問題が浮かび上がってきますがその中で特に忘れてならないのは政府の姿勢です1959年に「未帰還者に対する特別措置法」を制定し残留孤児等の戸籍を戦時死亡宣言で抹消したのです。肉親を必死で探していた家族の思いを無視して国は開拓団として派遣した国民を見捨てたのです。残してきた家族を必死で探す家族の思いを受け入れ残留孤児訪問調査団を受け入れたのは戦後36年が過ぎ去った1981年のことでした、更に多くの残留孤児が帰国できたのは1980年代後半で、残留孤児の年齢は40代半ばを過ぎていました。なぜ、家族の強い要望が有ったのに、これほど、長い間、国は見捨てて来たのか、Sさんもおっしゃたように国の取り組みは余りに遅すぎました。この事はハンセン病政策にも重なります。ハンセン病予防法がもっと早く廃止されていたら、中国残留日本孤児の帰国がもっと早く実現されていたら…Sさんは国の責任と共にメディアの責任についても触れておられましたが、国の過ちを正せない私たちにも責任があります



突然の電話

 会場の中ですので携帯電話はマナーモードにしていました、話を聞き、映像を見ながらモグジーは兄弟や肉親のことを考えていました。突然、携帯が振動し画面を見ると山口の姪からでした。私の姉の次女で、グループホームに入っている私の姉や病院に入院中の父親や老人ホームに入所中の祖母の世話で走り回っています。時々メールで情報を送ってくれるのですが、昼間に電話が掛かることは先ずありません。こんな時間に電話を掛けてきたということは緊急の用事に間違いありません。真っ先に思ったのは姉の急変でした、集会で兄や姉のことを何度も思い浮かべただけに、何故か不安になりました。でも、大切な話しを聞いていますし、前の方に座っていましたので、外に出て行く訳にも行きません。集会が終わり外に出るとすぐに姪に電話を入れました、姪からの連絡は姪の祖母が昨晩急逝したとのことでした。姉や姉の夫のことではなくて取り敢えずホッとしました。姪の祖母は先日103歳の誕生日が終わったところですので大往生です。今夜が通夜で明日葬式とのことですので、山口まで駆けつけなければなりません。鳴門に帰って山口に行くのでは大回りになりますので、神戸から直行することにしました。帰りのバスチケットをキャンセルし取り敢えず下り快速電車に飛び乗りました。岡山で新幹線に乗り換え、新山口で降りて山口線に乗り換え、山口市に在る葬祭場に着いたのは午後10時でした。通夜の会場には姉の上の娘たちが残っていましたので、すぐに仏様に会わせて貰いましたが、姪が言うように、寝っているだけで声を掛けたら目を開けて貰えるのではないかと思うほど、とても穏やかで、安らかな顔でした。
 取り敢えず、今晩は夜伽の会場で一晩を送らせて貰うことにしました。それにしても、色々なことが有った1日でした。



放映は11月28日と決まりました

 先日、ログで取材を受けた関西テレビのザ・ドキュメント「誰にも言えなかった〜ハンセン病家族の告白〜」の放映が関西テレビで11月28日25時25分〜26時35分に決まったとの連絡がSさんから届きました、深夜の番組ですので良かったら録画をとってお昼にでも見て戴ければと思います。
 又、番組の予告編が関西テレビのホームページで見れるとのことです

 ホームページのアドレスは
                  https://www.ktv.jp/document/

 余りにモグジーのことを良い様に書かれ照れくさくて…
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posted by モグじー at 20:49| 徳島 ☁| Comment(6) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年10月01日

忙しい1日

ギリギリまで収録を

 実は10月1日はログで2回目の担任をした卒業生たちのミニ同窓会を午前11時からすることになっていました。そこに、テレビの収録を9月30日と10月1日にしたいとの連絡が入り、ミニ同窓会を午前11時半からに設定し直しました。従って今日も忙しい1日となりそうです。
 今朝は8時からデッキで朝食をとり、引き続きデッキで収録をすることになっています。8時前に全員が集合し早速デッキで朝食を始めました。テーブルに並んでいるのはいつもの様に石窯パンと色々なジャムです。更に今朝はSさんから戴いた太刀魚のフライや骨煎餅、更に水路で捕ったカニのむき身も並んでとても豪華なサンドイッチを楽しんで戴くことができました。
 デッキでの朝食を楽しんで戴いた後、早速、収録が始まりました。今日は裁判を闘っているF君に是非聞いて欲しい家族の話を思う存分させてもらいました。モグジーの中には伝えたい話がたくさんありますので、次々と話しているうちにあっというまに11時がやってきました。モグジー達との別れの場面を収録した後、御一行さんは帰って行かれました。今回、二人に久しぶりに再会し、じっくりと話し合うことができたことで、長い間心に引っ掛かっていたF君のことが少し整理でき、F君と二人三脚で生きてきたS君の力強い言葉を聞けて本当に良かったと思いました。昨日のバーベキューの時に、ディレクターから40分のテープをこれまでに100本あまり収録したけど、これを50分にまとめますと言われたとき、番組を作るのは大変な仕事だとつくづく思いました。続編が放映されるのが楽しみです。



入れ替わりに卒業生達が

 11時に収録が終わり、F君達が帰った後、すぐに卒業生のM君から「今、大鳴門橋まで来ているけど、行って大丈夫かな」との電話が入りました。返事をするとまもなく卒業生達がやってきました。7名と聞いていましたが、一人都合が悪くなったとのことで6名の卒業生が元気な顔を見せてくれました。今回は、四国に来たついでに是非高松で讃岐うどんを食べたいとのことで、早速、モグジーも車に乗せてもらって高松に向かいました。モグジーがゲストを迎えたときに、讃岐うどんを希望されるといつも八栗にある山田家に案内します。雰囲気も良いし美味しくて価格もそれほど高くありません、それに、店内は非常に広いのでどんなにお客さんが多くても待たされることがありません。途中車の渋滞もなく、1時前には山田家に到着しました。店に着いてびっくりです、駐車場は満杯で店先は待つ人であふれています。こんなことは初めてです、早速、用紙に名前と人数を記入しましたが、30分程度は待つことになるとの返事でした。どうするか聞いたところ、皆待ちますとのことで雑談をんしながら待ちましたが、日曜日の昼時と言うことで特にお客さんが多かったようです。しばらく待ってやっと席に案内されましたが、うどんはこれからが早く、注文するとあっという間に、注文の品が到着し、食べるのも早いので2時前には昼食を終えることができました。もちろん美味しいと喜んでもらえました。
 ログに帰ると早速全員で手分けをしてバーベキューの準備をし、モグジーはsさんから頂いたハマチの半身とアオリイカで刺身を作りました。刺身を食べているうちにコンロの上の手羽先やスペアリブなども焼け始め、ビールを片手に話が盛り上がりとても楽しいバーベキューとなりました。毎年、こうして卒業生が何人か集まってログに来てくれ元気な顔を見せてくれます。幸いにも皆元気でモグジーもうれしくなりますが、今回は、一人だけ病気で入院していてこれなくなった卒業生がいます。何とか病気を乗り越えてまたログに顔を見せて欲しいと祈らずにはおれません。
 5時半頃には、建築現場で働いている卒業生は、明日も朝早くから仕事があるということで、お別れとなりましたが、こうして毎年の様に訪ねてもらえるのは本当にうれしいことです。

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 元気な顔が並びとてもうれしいことです、今日も昨日と同様の品々がテーブルに並びましたが、いつものように美味しいと言って食べてもらえました


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 モグジーは教師時代はネクタイと背広は身に付けずジャンパーで11年間通しました、このクラスの生徒達は卒業式の時、ジャンパーに寄せ書きをしてくれました。妻が出してきてくれたジャンパーを皆、懐かしそうに読んでいました(モデルさん顔なしの写真で申し訳ありません)。
posted by モグじー at 11:40| 徳島 ☔| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月30日

長い時が必要でした

「僕の母はハンセン病でした!」

 モグジーは25歳で工業高校の教師となり在日朝鮮人生徒F君やS君の担任となりました。クラスの生徒の前で何度かハンセン病について、強制隔離について、自分が感じたことを話しました。しかし、生徒からの反応は殆どなく、生徒達には理解できない事なのかなと当時は受け止めました。卒業後は二人とも本名を名乗って地元で公務員となり、「兵庫人権協会」を設立し差別と闘ってきました。一方私は関西の地を離れ、36歳でハンセン病療養所で働き始めました。彼らから送付される「兵庫人権協会ニュース」を見て、在日朝鮮人として逞しく生きている姿に安心し、私の役目は終わったと思いました。

 彼らが卒業して40年余り経過した4年前、ニュースを通してF君の母親がハンセン病で療養所に入園していたことを知りました。そのことは私にとっては衝撃的なことでした。F君は2年生の時に生い立ちを書いていました。「僕は1歳の時、家が貧乏で岡山の乳児院に預けられました、9歳の時に再び家族と一緒に生活できるようになりましたが、何で僕だけ預けられたのかと言うわだかまりが有って、今も母と上手くいっていません…」と。その時、私はお母さんはもっと辛かったと思う、お母さんの気持ちをきちんと聞いて行こう!」と返事を書きました。実際は、F君のお母さんはF君を出産した後、ハンセン病を発病し、子を手放したくなかったお母さんは必死に入園を拒んだのですが、地域で生活できなくなり、F君を乳児院に預けて療養所に入りました。治療の結果、8年後には退園できF君を引き取って家族全員での生活が始まりましたが、全く存在を知らなかった家族との生活になかなか溶け込めなかったようです。F君は生い立ちの中で母親のハンセン病のことだけは隠していました。

 退園後も薬を飲んでる母親を見て、F君は小学生の時、母親に何の病気か尋ねたところ、声を潜めて「らい病」と言われ、母親の態度からこの事は絶対に人に言ってはいけないことと理解し、誰にも言わなかったそうです。 私は仕事を通して多くのハンセン病家族の方々とお会いしました。家族にとってはテレビから聞こえてくる「ハンセン病」と言う言葉は鋭く心に突き刺さりましたが、聞き過ごすことで何とか自らを守ってきたと聞かされました。当時、私は目の前にハンセン病の母親を抱えた生徒が座っているとは夢にも思っていませんでした。そのような認識のもとで、「ハンセン病」のことを語り掛けました。F君は私の話をどんな思いで聞いていたのでしょうか。そのことがずっと気になっていました。

 先日の熊本での裁判が終わったあとの報告会で報道陣の方が「裁判が始まったときは名前を明らかに出来る人が少数でしたが、その後、次第に名前を明らかに出来る方が増えてきた、大きな前進なのではないですか」と質問されたとき、弁護団長が「ハンセン病の家族であることを明らかに出来るかどうかは、本人側の問題ではなく、話せる状況を我々の方が作れているかと言う我々の側の問題です」と報道陣に回答されました。その言葉が重く私自身にのしかかっています。

 2001年に熊本地裁で違憲判決が出てから、少しずつ、F君も「ハンセン病」と向き合うようになり、自分の気持ちを整理するために療養所を訪れ始めました。そして、共に闘ってきた親友のS君に告白し、ハンセン病家族の「れんげ草の会」とも連絡を取り始め、人の前でも自らの生い立ちを話すようになりました。最初は家族のことも考え名前を名乗らず仮名で人前に立っていましたが、親友のs君の励ましも有って2014年2月15日に大阪の阿部野区民センターで初めて名前を名乗って、生い立ちを語り、自分で作曲した「閉じ込められた命」をギターで演奏しました。その場にモグジーも駆けつけましたが、その後も、じっくりとF君と話を機会もなく時間が過ぎていきました。



家族訴訟に立ちあがったF君

 現在、F君は家族訴訟団の副団長として裁判闘争の前面に立って闘っています。その姿が先日関西テレビのザ・ドキュメント「閉じ込められた命〜語り始めたハンセン病家族たち」で放映されました.番組では力むことなくしたたかに生きてきたF君の姿がそのまま画面から伝わってきました。そして、続編を作るということで、F君の家族、親友のS君の取材をし、最後にログでのF君とS君とモグジーの出会いが収録されることとなりました。
 予定通り午後1時半に彼らが到着し早速収録が始まりました。前回の取材ではディレクターから質問を受けるという形でモグジーは話をしましたが、今回はログに二人が訪ねてきてモグジーと話をするところを撮りたいということです。そこで、収録のことは気にせず、ずっと気になっていたことをF君に聞く形で話し合いを始めました。話し合いの中心は、私が教室でハンセン病の話をした時、F君はどう感じていたのかと言う点でした。F君は矢張り記憶に残っていないと語り、同じ教室にいたS君は「自分たちは朝鮮人として本名を名乗るだけでも大変なのに、更にハンセン病となって療養所に入れられても、同胞のために頑張っている朝鮮人の患者さんの話を先生から聞いたとき、物凄い衝撃を受けた、どうしてこんなに強く生きられるのだろうか、それはずっと心に残り今でもはっきり覚えている」と語りました。私が語ったことがこれほど強くs君の心に響いていたとは想像もしていませんでした。そして、同じ話をF君は深く受け止めないことでハンセン病家族としての身を守ったのではないかと思いました。共に差別と闘ってきた親友のS君にハンセン病の家族であることを初めて話した時のことがF君から語られましたが、F君が病気のことを告白出来るまでには非常に長い年月を要しました。社会で生きている家族がハンセン病の家族であることを明らかにするのはどれだけ困難なことであるか、F君のことを通して改めてその困難さを再認識させられました。こうして4時間余りかかって何とかF君とS君との話し合いを終えることができました。



せめてログの自慢料理を!

 今回の取材は今日から明日の午前中までの泊りがけの予定となっていましたので、夕食はログ名物のバーベキューを食べて戴くことにしました。バーベキューの材料は前もって準備していましたが、できれば美味しい鳴門の海の魚も食べて戴きたいと思って友人のSさんとYさんに魚をお願いしておいたところ、Sさんは見事なハマチとアオリイカを確保して下さり、Yさんは沢山の丸アジを確保して下さいました。でも、よく考えると夕方までモグジー自身は収録を受けますので、魚の調理はとても無理です。そこで当日になって急遽調理まで甘えることにしました。御二方のご援助により、見事なハマチとアオリイカと丸アジの刺身、そして綺麗に焼けた丸アジがテーブルに並び、バーベキューの手羽先も良い香りに焼けて素晴らしい夕食が始まりました。新鮮な魚を心から喜んで貰え、ログ自慢のバーベキューもしっかり堪能して貰えました。夕食は魚のもてなしをしてくださいました、SさんやYさんご夫婦にも加わって貰い、色々な話で盛り上がりましたが、後半は妻が最も楽しみにしていた、F君とS君とのギターコンサートとなりました。テレビ局のスタッフの方々以外は全員60代が中心でしたので昔懐かしいフォークソングを中心に沢山の曲を歌って貰え素晴らしいコンサートとなりました。こうして収録第1日目も無事に終わりました。

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 収録も無事に終わり、F君とS君のプロ並みのギターをたっぷりと楽しませて貰いました
posted by モグじー at 09:29| 徳島 ☔| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月24日

船旅は良いなー

良く眠れました!

 今回は往復フェリーを使いましたので、帰路はすっかりフェリーに慣れて船内で食べるお弁当やおやつなどをも買い込んで船に乗りました。昨日も結構色々と歩き回りましたので、夕方6時に船に乗り込むと買っておいた大好物の寿司を食べた後、お風呂に入ったり、読書をしてしばらくくつろいだ後、布団に入り、10時頃には消灯して寝ました。良く眠れましたが4時頃目が醒めると、色々なことを考えてしまい二度寝が出来そうにも有りませんでしたので、4時半頃には服を着てホールに行きました。時間が早かったため他の乗客の姿は有りませんでしたが、照明は昼間と変わらず明るかったので、窓際の席に座って本を読んだり、メモを作ったりして時間を過ごしました。
 6時頃になると、辺りが明るくなって陸地が見えるようになって来ました。遥か遠くに室戸岬らしい半島が見えます、船はすでに室戸岬を越えた様子です。それからしばらく走ると紀伊水道に在る伊島が見えてきました。伊島をまじかに見るのは始めてです。釣り情報で良く出てくる磯釣りの名所ですので、小さな無人島とばかり思っていましたが、何か違う感じです。想像以上に大きな島でしたのでログに帰ると早速パソコンで調べてみました。すると住民200名余りが住んでいる島とのことで驚きました。一度行ってみたいものです。
 遠くに眉山が見えいよいよ徳島港も近い様です、今回の船旅は天候に恵まれ船も殆ど揺れず新造船に初めて乗りとても楽しい船旅を経験させて貰いました。又、利用したいと思います。

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 すっかり辺りは明るくなりました、かなり船は陸地から離れたところを通っており、遥か向こうに四国の山々が見えています


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 伊島が想像以上に大きいのにびっくりしました、山の高さも結構あり海岸は殆どが絶壁です、山の頂上に灯台が立っていました


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 新しく出来たオーシャン東急フェリー用の埠頭が見えてきました。フェリー乗り場が津田からマリンターミナルに移って本当に助かります
posted by モグじー at 20:32| 徳島 ☀| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月23日

たっぷり時間が有ります

菊池恵楓園に行ってみよう

 モグジーが泊ったホテルはベッド以外に時間を過ごせる場所が有りませんので、ベッドで電灯を点けて本を読んでいましたが、今日も1日良く歩きましたので疲れていたのでしょうか、いつの間にか眠たくなって寝てしまいました。ただ、今回は2段ベッドの上の方でしたので、寝相の悪いモグジーは下に落ちないか気になって何度か目が醒めました。目が醒めても直ぐに眠れていたのですが、そのうちに眠れなくなり時計を見ると午前5時過ぎでした。もう寝ることもできないと思い、このまま、ベッドに居ても仕方ないので着替えてホテルを出ました。今日は夕方の6時に新門司港から徳島行きのフェリーが出ます、それまではたっぷり時間が有りますのでどこかに行ってみようと色々ベッドの中で考えました。先ず頭に浮かんだのが、熊本市からそれほど離れていないところに有るハンセン病療養所菊池恵楓園に行くことでした。日本に13ヶ所有る国立療養所の中に最も入所者数が多い療養所です。これまでモグジーは東の方に在る療養所は殆ど行っていますが、九州・沖縄に在る4ヶ所の療養所は行ったことが有りません。こんな機会はめったにありませんので行くことにしましたが、アクセスが分かりません。駅前には交番があるだろうと思い、ホテルを出て駅前に行きました。附近を歩き回りましたが結局交番は見つからず、仕方ないので携帯メールで妻に調べて貰いました。間もなく妻からメールが届き利用交通機関が判明しましたので、その通りにJRで1駅乗って上熊本駅に行きそこから熊本電鉄に乗って再春荘病院前で降りると徒歩5分で無事菊池恵楓園に着きました。大島青松園の場合は島にありますので名実ともに離島に閉じ込められるという感じですが、市街地からそれほど離れていないところに療養所があることにびっくりしました。

 菊池恵楓園の正門に着いたのは8時半でした。モグジーが療養所を去って20年近く経っていますので恵楓園には知り合いは誰もいません、そこで、取り敢えず園の外周を歩いてみることにしました。最初に、向かったのは納骨堂です、療養所に強制隔離された方の殆んどは療養所内で亡くなり遺骨は園内の納骨堂に安置されています。先ずは納骨堂で拝ませて貰うことにしました。最近は療養所を見学される方が多いため園内の地図や説明板があらゆるところに設置され、迷うことなく納骨堂に到着しました。御線香をあげ拝ませて貰った後、園の外周をゆっくりと歩きました。現在恵楓園の入所者数は200名余りとのことですが、それでも国内では最も多いとのことです。それから、園の外周をゆっくりと一周しました、園内を歩いている人は少なく数名の方にお会いしただけでした。資料館も祝日で休みだっため、今回は雰囲気だけを見せて貰い1時間余りで恵楓園訪問を終え、JR上熊本駅に戻ると鳥栖行きの普通列車に乗りました

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 菊池恵楓園の正門です、向こう側には広大な森が広がっています


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 納骨堂です、堂の中には1300個余りの骨箱が並べられていました


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 旧納骨堂です、


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 園内に有った幼い入所者用の学校の跡地に建てられた説明板です


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 園の外周には逃亡防止のための高い塀が設置され、現在も残っています


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 園内に火葬場が有って、死亡者が出ると、入所者が火葬していました

        

小倉で途中下車

 終点の鳥栖駅で快速の小倉行きの電車に乗り換えました。小倉で更に門司行きの電車に乗って門司まで行こうと思っていましたが、門司は小さな街の感じでしたので、小倉で途中下車して食事をとることにしました。今回、門司駅と熊本駅と小倉駅に降りて駅付近を歩きましたが、小倉が最もにぎわっていました。食事をするお店も色々とありましたが、結局はどのお店にも入らず、パン屋さんでパンを買って隣の門司駅に行きました。駅を出て少し歩くと関門海峡が有り、ベンチに座って関門海峡を見ながらパンを食べましたが、海を見ながらの食事は最高でした。門司は昔から港で栄えた街ですので赤レンガの建物が沢山有ったようです。門司駅のすぐ近くに在る赤レンガ保存地区では昔の赤レンガの建物が保存されていてとても魅力的でした、「海」「赤レンガ」モグジーの好きな物ばかり見ることができ最高の寄り道となりました。

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 ベンチに座ると目の前に関門海峡が広がっています、向こうに見えるのが下関側の彦島です


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 駅から5分余り歩くと関門海峡があります。海沿いの散歩道が延々と続いています


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 散歩道の後ろ側には赤レンガの建物が何棟か保存されています、神戸や門司などの港町には赤レンガの建物が残っていて素晴らしいと思います


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 建物の妻の部分にはこのような装飾がされています、とてもおしゃれです


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 赤レンガの建物に入り天井を見上げるとトラス構造の木組みが見え、圧倒されます



フェリーターミナルへ

 関門海峡を眺め赤レンガの建物を楽しんだ後、門司駅に戻り、先ほどとは反対側の方に歩いて行ってスーパーで買い物をしました。フェリーの中で食べる夕食と朝食用のお弁当、そして果物などを買い、駅に再び戻って待合室で待ているとオーシャンフェリーの職員が来て乗合タクシーの所まで連れて行って貰えました。タクシーで20分余り走るとターミナルに到着し、6時前にフェリーに無事乗り込むことができました。今日も1日大いに歩きましたので、早めに夕食を食べ、お風呂に入って、ベッドに転がりこみましたが、帰りの船もお客さんが少なくゆったりと船内生活を楽しむことができました。
posted by モグじー at 22:55| 徳島 | Comment(2) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月22日

熊本城は悲惨な姿に

JRで熊本へ

 昨晩は10時頃ベッドに入りましたがしばらく本を読んで11時頃寝ました。朝は5時頃目が醒めましたのでそのまま起きていると、間もなく新門司港の灯りが見え予定通り朝5時40分にフェリーは埠頭に到着しました。昔は関西方面からのフェリーは小倉に着いていたのですが、狭い関門海峡を通らねばならないのと、小倉港が手狭になったため、関門海峡の手前側に新門司港が開かれそこにフェリーターミナルが作られました。新門司港の場合はアクセスが悪いので利用者にとっては港に着いてからが大変です。最寄りのJR門司駅までかなり離れているためタ多額のクシー代が掛かります。そのため各フェリー会社で無料送迎バスを運行したりしていますが、オーシャンフェリーの場合は乗合タクシーを用意してくれていて一人310円で門司駅まで送迎して貰えました。門司駅に到着すると熊本までの往復乗車券を購入し、6時25分発の快速電車「大牟田」行きに乗りました。朝が早いので最初の頃は乗客も少なかったのですが、北九州市の各駅を通るうちに時間が進み通勤ラッシュが始まりました。山口県に住んでいるときは九州はとても身近に思っていましたが、四国に住むと遠い存在となってしまい、久しぶりに見る九州の姿を懐かしく見守っていました。通勤ラッシュが済むと急に乗客が少なくなり1両にモグジー一人と言う時も有りましたが四国の高徳線に比べると乗客は多そうでした。途中、サガン鳥栖のスタジアムなど色々な景色が車窓に見え退屈することは有りませんでした。「大牟田」で熊本行き普通列車に乗継し9時半に熊本駅に無事到着しました。

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 1両に乗客はモグジーが一人だけと言う場面もありました、JRの普通列車に乗っていると本当に旅をしているという感じが強くモグジーは大好きです




熊本の町は分かり難い

 今日は駅前のホテルに泊まるのですが、今日の会合が終わるのは夜9時過ぎですので、その時にホテルが分からなくて慌てない様、駅から出ると先ず今晩泊るホテルを探しました。あらかじめネットで予約しアクセスもチェックしてきたのですが、いくら探しても目的のホテルは見つかりません。かなり時間を掛けてやっと見つけました、ホテルと言えば必ず大きな看板が出ているのですが、このホテルはカプセルホテルに似た感じの小さなホテルで看板らしい看板が出ていなかったため探しにくかったようです。取り敢えずホテルが見つかりましたので、ネットで頭に入れていた熊本城の先に在る熊本地裁を探すことにしました。お城のある街では駅に降りると殆どの場合お城が見えるのですが熊本の場合は全く見えません。簡単な地図を案内書で貰ってお城を目指して歩きはじめました。駅前を真っ直ぐ歩くと大きな白川が流れており、白川に沿って東に向かいました。お城の近くに裁判所などが固まっているのは、どこの町でも良くあります、ただモグジーの頭の中には、お城が少し小高いところに有って、裁判所などは平たん部に在るイメージしかなかったので、駅から真っ直ぐお城をめざし、お城に突き当ったら城の向こう側に回ってその付近を探せばよいと思い、その付近を歩き回りましたが、いくら歩いてもそれらしき建物が見つかりません。困ってとうとう交番に入りました。そこで分かったのは裁判所はお城がある高台の一部に有ったということです。交番で貰った地図を見ながら進むと。先ず検察庁が目に入そのすぐ裏にやっと裁判所の建物が見えてきました。裁判所に入って公判の時間を確認した後、時間が有りましたので熊本城が有る方の高台を目指しました。熊本地震の後の天守閣の悲惨な状態はニュースで何度も見ましたが、実際に行ってみると天守閣だけでなく、あちこちの石垣が崩れ古い塀などもあちこちで倒れたままになっていました。お城が建てられて何百年も壊れなかったのにこれほど悲惨な姿になるなんて信じられないようなことです。お城が在る一帯を見て回った後、地裁に戻りました。公判は2時からですが、その前に門前集会が1時からあると聞いていましたので。

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 やっと裁判所らしき建物を見つけることができました、この辺りは海抜20b位はあるでしょうか


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 天守閣は足場で覆われ復旧作業が行われていました


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 ほかの建物や石垣はまだ手も付けられていません、昔の石垣がこれほど脆いとは信じられません



「24」番が無い!

地裁に戻ると、先日ログでお会いした関西のテレビ局のクルーの方々の顔も見えました、そして、大島青松園に勤務されていたDr.の顔も見えましたので話をしていると教え子のF君の姿も見えました、庁舎内には支援の人がたくさん集まり熱気に包まれていました。そのうちに1時が来て門前で決起集会が始まりました。横断幕の中央にはF君の姿も有ります、原告団の決意表明が行われた後、支援者の挨拶が有り、最後に原告団団長のH先生の挨拶が有っていよいよ入廷行動となりました。横断幕を持って原告団長のH先生や副団長のF君が先頭になって裁判所に入廷していきました。その後、モグジー達は傍聴券を貰うために並びました。法廷には40名余りしか入れず、傍聴希望者は100名を超えているため、先ず並んで整理券を貰い抽選結果を待たねばなりません。モグジーの整理券には24の番号が打たれていました。しばらくすると裁判所の係員が当選番号が書かれた紙を持って来て掲げました。残念ながら「24」の番号は有りませんでした。3倍の倍率なので3人に一人しか当たりません、当らない人の方が多いのですから仕方ありません。裁判の結果については午後4時半から詳しい報告集会で報告されるとのことですので、その報告を待つことにしました。しばらく法廷の前で立っていると、関係者の方が傍聴券が2枚あるけど誰か入られますかと言われすぐに挙手しました、最後の最後に法廷に入れることになり本当にラッキーでした。

 今日の公判は2名の弁護士が意見書を述べて30分程度であっけなく終わりました。今日はこの後、判事と被告弁護団、原告弁護団とで今後の日程について話し合いが行われそうで、その方が重要との説明で公判の傍聴を終えたモグジー達は近くのホテルで日程協議が終わるのを待ちました。
 4時半から報告集会が始まり、200名近くの関係者の前で先ず、今日の後半の内容が報告されました。ただ、2名の弁護士の意見書はプリントされたものが用意されており、その内容を口頭で述べただけですので、報告は簡単に済まされましたが、日程の話し合いはかなり揉めたようでした。基本的には被告の国側は日程を延ばそうとするし、原告団は高齢者も多いので出来るだけ早く進めたいという思いが有って調整が難しかったようです。最終的には12月4日に原告側が希望した証人尋問が行われることになり、来年の3月に2回原告側の本人尋問が行われることになったそうです。国は入園者が原告となった裁判では原告の被害を認め謝罪と慰謝料の支払いをしましたが、今回は家族には被害が及ばなかったという態度で突っ走っているようです。我々、ハンセン病に関わったものにとってはとてもそのような論理は通らないと思っているのですが、本人の場合は療養所の入所歴など具体的な証拠が大量に有ったのに比べ、家族の被害は具体的な証拠が少ないだけに、厳しい戦いとなりそうです。

 報告会の後は今回の裁判を支援する市民の会を立ち上げるための集会が開かれました。今日の裁判にも全国から色々な団体の代表者が参加していますが、今後の厳しい戦いを戦い抜くため、本格的に支援していくための組織を立ち上げることになったとのことです。今回は前回の裁判の時に比べ世論も盛り上がりが乏しいため、もう一度大きな市民のうねりを起こす必要が不可欠との認識が集会参加者の間で共有され、市民の会が無事立ち上げられました。モグジーも一市民としてこれまでの思いを具体的な形にしていこうと思っています。市民の会の立ち上げ会で感じたのはこの場に集まった人々が殆ど中年を越えたような人ばかりで若者の姿がほとんどなかったということです。この事も重い課題として考えて行かなければならないと思います。午後6時からは懇親会が開かれました。大勢の方が参加され、熱気で会場はむんむんとした感じでした。予定を越えて多くの方が懇親会に参加されたため、料理が足らなくなるというハプニングも生じましたが、全員で分け合って食べ最後まで盛り上がった懇親会も無事に終わりました。

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 裁判所の門前で門前集会が開かれました、多くの人々が集まっていました


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 門前集会が終わると原告団による入廷行動が行われ支援者から大きな拍手が起こりました、副団長のF君も決意に満ちた面持ちで前に進んでいきました




合格点が出せます

 懇親会が終わった後、モグジーは再び駅を目指して熊本の町を歩きました。午前中歩き回ったおかげで熊本の町の地図もやっと頭に入りましたので、今度は迷うことなく駅までたどり着くことができました。それにしても結構な距離が有りました。今日泊るホテルは一晩3400円のカプセルホテルです。ただ、細かく言えば従来のカプセルホテルとは色々な面で違っているそうです。モグジーはカプセルホテルを利用したことが有りませんので違いは分かりませんが先ほども書きましたようにとにかく場所が分かり難いのが困りました。このホテルは大きなビルの1階部分の半分程度を利用して2段のベッドを40台程度設置し、共用のシャワー室トイレ、洗面所を設置しています。7月にオープンしたのでとにかくきれいで清潔だったのが良かったと思います。とにかく寝れれば十分ですので、モグジーには何ら不満は無く、ぐっすりと寝させて貰うことができました。

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 フェリーと違って上のベッドは梯子を登らねばならず、不便でした。パジャマとスリッパとタオルや洗面具等は全てついていました


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 シャワールームやトイレも沢山有りますので不便は有りませんでした、ただ、まだまだ、オープンして間もないため利用者が少なくて落ち着いた感じがしましたが、好評で利用者が増えると、このスペースではかなり圧迫感で生じるのではないかと思います
   
posted by モグじー at 01:21| 徳島 ☀| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2017年09月21日

熊本目指して

フェリーで新門司まで

 9月22日にハンセン病入所者の家族が国を訴えている国家賠償請求訴訟の第6回公判が熊本地裁で開かれます。今回、モグジーは初めて裁判を傍聴することに決め、22日の午後1時までに地裁に到着できるよう、今日午後2時20分発の門司行きオーシャン東九フェリーに乗ることにしています。鳴門から熊本まで行く方法は色々あります。最も効率的なのは車で行く方法ですが家族から絶対にダメと言われていますので今回は車を諦めました。後は夜行バスかJR在来線を乗り継ぐかフェリーとJRの乗継です。飛行機と新幹線は最初から頭には有りません。色々と調べてみましたが、最終的にフェリーを選択しました。時間は最も長時間を要しますが、久しぶりに船に乗りたかったからです。

 これまでに、何度かオーシャン東九フェリーの東京〜徳島は乗ったことが有ります。この1.2年でこの航路に使用する4隻の新しいフェリーが全て完成し就航していますが、新しいフェリーには乗ったことが有りません。是非1度乗りたいと思っていたからです。この航路では徳島乗り場は津田港が使われていましたが新造船は沖洲のマリンターミナルのすぐ東に新しい乗り場が出来、それが利用できるようになりました。都合が良いことに新しい乗り場は長女の家からすぐですのでモグジーにとってはとても便利になったのです。ログから長女宅まで車で行き、長女に車で送って貰えれば簡単に船に乗れます。門司行きは14時20分に出港するため昼過ぎに長女宅に行く予定でしたが、朝から落ち着かず作業も出来ませんので結局早めに長女宅に行き出発まで孫の子守をすることにしました。途中でお弁当や果物を買い、長女宅での子守も済ませ、予定通り14時20分にフェリーに乗り込みました。
 新しいフェリーに乗るのに忙しくて施設やサービスの内容は何も調べていませんでした。船に乗り込むと係の人から部屋番号を言われ、言われた部屋に行くと2段ベッドの下のベッドがモグジー用に用意されていました。2段ベッドと言っても上の段は梯子で上がるのではなく階段で上がるようになっているため、高齢者でも安心してベッドに入れます。ベッド以外で過ごす場所としてホール等が有りますが以前の船に比べて非常に過ごしやすいデザインとなっていました。お風呂も以前より広くなり使い易くなっていました。船に乗るといつもモグジーはデッキに出て海を眺めているのですが、今回は少しだけデッキで過ごしましたがほとんどはホールの海側に設置されたテーブルで食事をとったり読書をしたりして過ごしました。初めて通る豊後水道は是非見たかったのですが室戸岬を過ぎたあたりから暗くなり景色を見ることは全くできませんでした。

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 12000トンですので大きさは十分です、デザインもスッキリしています。このフェリーはカーオブザイアーの船に当る賞を取ったそうです。


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 8人部屋でした。片側に2段ベッドが4つならんでいます


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 2段ベッドの上のベッドは階段で上れるようになっていますので上り下りがとても楽です、カーテンを閉めると外の灯りが全く漏れて来ません、部屋には明るい照明も有って充分読書も出来ました

posted by モグじー at 22:05| 徳島 ☀| Comment(0) | その他 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

60才からの挑戦

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